知恩院
本堂(御影堂、国宝)
所在地京都府京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分18.75秒 東経135度47分0.25秒 / 北緯35.0052083度 東経135.7834028度 / 35.0052083; 135.7834028
知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。
なお他流で門跡に当たる当主・住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。浄土門主・法主推戴委員会により推戴される。 知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(現・岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。法然は東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てると、そこに入った。 「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名を唱えれば極楽往生できるとする思想である。この思想はいわゆる旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。 法然は建永2年(1207年)の承元の法難で讃岐国(現・香川県)に流罪となったが、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻る。その際、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。しかし、翌建暦2年(1212年)1月25日に80歳で没した。 この吉水での法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。そのため法然の死後、大谷禅房の隣に法然の廟が造られ弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまった(嘉禄の法難)。しかし、文暦元年(1234年)に法然の弟子である紫野門徒の勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるなどすると[1]、次第に紫野門徒の拠点となっていった。
歴史
これにより、紫野門徒の拠点であった知恩院と百万遍知恩寺は鎮西義の京都での有力な拠点となった。
永享3年(1431年)に火災にあって焼失するが、間もなくして再興されている。
応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱の際には、知恩院22世周誉珠琳が近江国伊香立(現・大津市伊香立)の金蓮寺に避難し、法然御影や仏像、宝物類を付近にあった庵に避難させ、この庵を改めて新知恩院とした[2]。そして、文明10年(1478年)に知恩院を再興するが、永正14年(1517年)に焼失する。
大永3年(1523年)、知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)と百万遍知恩寺25世慶秀との間で本寺争いとなったが知恩院が勝利し、鎮西義で第一の座次となり本山となった。享禄3年(1530年)に勢至堂が再興され、後奈良天皇より宸翰と「知恩教院」「大谷寺」の勅額を賜っている。
また、戦国時代には縁誉称念による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して鎮西義から分派し、天文17年(1548年)に法然上人御廟の向かいに一心院を建立している。
天正3年(1575年)、正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。
天正13年(1585年)には豊臣秀吉より寺領190石が寄進されている。
現存の三門、御影堂(本堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は慶長8年(1603年)に知恩院を永代菩提所と定めて寺領703石余を寄進したうえ、翌慶長9年(1604年)からは、北に隣接する青蓮院の地を割いて知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行っている。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったといわれている。江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。