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知名 定男
生誕 (1945-04-21) 1945年4月21日(74歳)
福岡県北九州市
出身地 日本
ジャンル沖縄民謡
職業民謡歌手
担当楽器三味線
活動期間
1956年 - 2012年,2015年 -
レーベルリスペクトレコード
事務所ディグ音楽プロモーション
公式サイト ⇒知名定男
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知名 定男(ちな さだお、1945年4月21日 - )は、主に沖縄県で活動する民謡歌手(唄者)、作詞・作曲家、音楽プロデューサー。ディグ音楽プロモーション所属。現代沖縄民謡の大御所の一人で、琉球音楽協会会長。
目次
1 略歴
2 一族
3 ディスコグラフィー
3.1 アルバム
4 映画
5 著書
6 脚註
7 外部リンク
略歴の子役として活動。6歳にして歌劇「でぃぐぬ花」で初のレコード録音を経験した。
1956年、父の故郷・沖縄に、父と共に密航。素人のど自慢大会で2位に入賞し、審査員を務めた登川誠仁に見出され、内弟子となる。直後に「惣慶漢那
」(スーキカンナー)でデビューし、「天才少年現る」と話題を呼んだ。以来音楽活動を続け、1971年、自ら作詞・作曲した「うんじゅが情けどぅ頼まりる」を発表。瀬良垣苗子の唄で大ヒットを記録する。1974年からは竹中労が企画した第1期琉球フェスティバルに参加し、東京・大阪の舞台に立つなど、喜納昌吉らと共に新世代の沖縄音楽のリーダーとしての地位を固めた。
1978年、洋楽と沖縄民謡の融合を図ったアルバム「赤花」で本土デビューを果たす。収録曲「バイバイ沖縄」はヒットしたが、従来の民謡の枠を越えた曲だったため賛否両論を呼んだ。また翌年、浦山桐郎監督の映画「太陽の子 てだのふあ」(1980年公開)に出演した。
プロデューサーとしては1990年、古謝美佐子、吉田康子、宮里奈美子、比屋根幸乃の4人で初代ネーネーズを結成させ、全国的に話題を集めた。さらに鳩間島で天才民謡少女と評判だった鳩間可奈子を見出し、デビューさせた。1995年からは第2期琉球フェスティバルのプロデュースを務め、全国的な沖縄音楽ブームの立役者となっている。
2000年には安室奈美恵の「NEVER END」(第26回主要国首脳会議イメージソング)で三線を演奏。2009年、「定男の唄を残したい」と乞われ、民謡101曲を収録した6枚組CD「島唄百景」を録音。同年12月2日?2010年1月27日、NHK教育テレビで放送された「趣味悠々 めんそ?れ!知名定男の三線入門」で講師を務めた。那覇市の国際通りでライブハウス「島唄」を経営する。
2012年3月25日、沖縄市民会館にて開催された自身の芸能生活55周年記念公演にて、「数年来の声の不調のため、自分のイメージ通りの歌が歌うことが出来なくなった。この公演を最後にしたい」として歌手活動からの引退を表明した[1]が、父・知名定繁の生誕100年記念公演があることや、友人やファンの声もあり、2015年3月に歌手活動を再開することを表明した[2]。 父は沖縄民謡の大家として知られる知名定繁で、弟の知名定照 多数の録音を残しているが、CDで比較的入手しやすいものを挙げる
一族
ディスコグラフィー
アルバム
赤花(1978)
沖縄島唄4 辻のブルースと情歌の世界(1991、糸数カメと共演)
島うた(1991)
島や唄遊び(1992、徳原清文と共演)
遊び唄・情け節(1996)
登川誠仁&知名定男(2004、登川誠仁と共演)
うたまーい(2005)
島唄百景(2009)
唄魂(2009)
映画
沖縄やくざ戦争 (1976年) - 琉歌指導
太陽の子 てだのふあ (1980年) - ゴロちゃん 役、および作中の三線演奏
著書
『うたまーい 昭和沖縄歌謡を語る』岩波書店、2006.2
脚註^ ⇒知名定男さん引退「若い人に受け継ぎたい」 琉球新報 2012年3月26日閲覧