矢野謙次
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矢野 謙次日本ハム時代
(2015年9月3日、東京ドームにて)
基本情報
国籍 日本
出身地東京都三鷹市
生年月日 (1980-09-21) 1980年9月21日(42歳)
身長
体重178 cm
85 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り2002年 ドラフト6巡目
初出場2003年8月19日
最終出場2018年10月10日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


國學院大學久我山高校

國學院大學

読売ジャイアンツ (2003 - 2015)

北海道日本ハムファイターズ (2015 - 2018)

コーチ歴


北海道日本ハムファイターズ (2020 - 2022)

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矢野 謙次(やの けんじ、1980年9月21日 - )は、東京都三鷹市出身の元プロ野球選手外野手)。右投右打。愛称は「ヤノケン」。

2021年から2022年シーズンまで北海道日本ハムファイターズの二軍打撃コーチを務めた[1]
経歴
プロ入り前

小学校2年の時に「三鷹リトルシニア」で野球を始める。同じリトルシニアには高江洲拓哉が所属していた。三鷹市立第六中学校時代の「三鷹シニア」ではエース兼四番打者として関東大会に出場。國學院久我山高校では同級生に笠木新田村知佳 (野球)(女子野球代表、高校女子野球部監督)ら、1年下に河内貴哉がいた。1997年秋季東京大会では河内の好投もあって準決勝に進むが国士舘高に敗退。翌1998年夏の甲子園西東京予選も準決勝で桜美林高に10-9で惜敗、甲子園には届かなかった。

國學院大學に進学。当時の國學院大は東都大学野球リーグ二部に低迷していたが、通算23本塁打を記録し「井口資仁二世」と呼ばれる。当時高校の先輩である井口が所属していた福岡ダイエーホークス日本ハムファイターズが獲得意思を示したが、矢野は高校時代から注目してくれていたという読売ジャイアンツ(巨人)への入団を熱望していた。同球団関係者は「足が速いし、魅力がある。打撃もパンチ力があり、遠くへ飛ばす力を持っている」と高く評価していた。

2002年のNPBドラフト会議で、巨人から6巡目で指名。契約金6,000万円、年俸660万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は48。
巨人時代 巨人時代(2009年)

2003年には、春季キャンプから一軍へ帯同すると、オープン戦では同期入団の高卒内野手・長田昌浩と共に安打を放った。レギュラーシーズンでは、8月19日の対横浜ベイスターズ戦(東京ドーム)7回裏に、ロベルト・ペタジーニの代走で一軍公式戦にデビュー。ただし、シーズンの大半を二軍で過ごした。シーズン終了後に結婚。

2004年には、7月24日の対横浜戦(横浜スタジアム)に、「8番・右翼手」として出場。一軍公式戦で初めてスタメンに起用されると、4回表の第2打席では、一軍公式戦での初安打・初打点を吉見祐治からの適時打で記録した。翌25日の同カードでは、5回表の第2打席にスコット・マレンから一軍公式戦初本塁打を放っている。

2005年のシーズンは主に二番打者、右翼手中堅手として85試合に出場。打率.281、7本塁打の成績を残した。7本塁打のうち4本を横浜ベイスターズ土肥義弘から打った。

2006年は、4月終了時点でセントラル・リーグの打率ランキングで2位につける好スタート。また、秋季キャンプで課題となっていたスローイングも補正され、走者をアウトにする場面も多くなり、とくに高橋由伸中堅手への転向で空いた右翼手の守備に適性を見せた。しかし、6月12日に左足小指の骨折が判明し、出場選手登録を抹消される。7月11日の横浜戦(札幌ドーム)で一軍復帰し即先発出場。7月16日の対東京ヤクルトスワローズ戦で高津臣吾から決勝点となる6号本塁打を打った。その後は故障の影響などもあり徐々に成績が下降したが、盗塁11、二塁打18の数字を残した。シーズン終了後には秋季キャンプを辞退し、骨折箇所のボルト除去手術を受けた。

2007年は代打起用でシーズンを迎える。高橋が右翼手に戻り、一時は中堅手としてデーモン・ホリンズ鈴木尚広と併用されたが、矢野が中堅手としての守備に不慣れな面を見せたことや、監督の原辰徳曰く「攻撃と守備のバランスが取れた」ホリンズが先発として起用され、矢野は代打に回った。5月31日の福岡ソフトバンクホークス戦(東京ドーム)では、7回裏1アウト満塁の場面で福田聡志の代打で登場した清水隆行の代打で(代打の代打で)登場し、篠原貴行から代打逆転満塁本塁打を放った。この本塁打は観戦に来ていた会長の渡邉恒雄から「今日の(矢野の)一発は1000万円以上の価値がある」と賞賛された[2]。代打逆転満塁本塁打は巨人では1987年に原が記録して以来、球団史上5人目(他には樋笠一夫広野功駒田徳広。樋笠と広野はサヨナラ)、代打の代打による満塁本塁打は初の快挙となった[3]。6月11日の北海道日本ハムファイターズ戦では武田勝から決勝ソロ本塁打。1-0のスコアで勝利した試合で代打本塁打を打ったのは、1949年藤本英雄以来58年ぶりの快挙となった。序盤と終盤の不振もあったものの、出塁率.354、長打率.538、代打成績は39打数10安打で打率.256、本塁打4という数字を残した。

2008年は開幕前に右ひじの疲労骨折と診断され出遅れる。6月に一軍昇格するが故障が再発し数日で二軍降格。二軍調整中の7月には二岡智宏の不倫スキャンダルの現場に同席していたことが報じられた[4]。9月に二軍戦復帰するが、秋季フェニックスリーグで右膝関節を痛め、オフに手術[5]。この年は3試合の出場に留まり、5打数無安打だった。

2009年前半は手術のリハビリに費やし、8月6日のイースタン・リーグ公式戦(東京ドーム)で四番・指名打者として実戦復帰。復帰初打席で適時打を打ち、復帰後初打席初安打初打点を記録した。二軍成績は24試合に出場して58打数17安打1本塁打5打点、打率は.293。巨人のリーグ優勝後の9月28日に一軍昇格するが、6試合の出場に留まり9打数1安打だった。

2010年5月9日の横浜戦で2年ぶりの先発出場を果たすと、適時二塁打で3年ぶりとなる打点を記録。同年5月13日の埼玉西武ライオンズ戦でも先発出場し、適時二塁打を含む2安打2四球で4打席全て出塁した。シーズン終盤に代打の切り札として昇格後は安打を重ね、代打のみならず二番打者としての先発出場などとフル回転。最終的に42試合で74打数と少ないながらも自身初のシーズン打率3割を達成。


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