矢野燿大
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矢野 燿大(矢野 輝弘)
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府大阪市平野区
生年月日 (1968-12-06) 1968年12月6日(55歳)
身長
体重181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1990年 ドラフト2位
初出場1991年8月3日
最終出場2010年5月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


大阪市立桜宮高等学校

東北福祉大学

中日ドラゴンズ (1991 - 1997)

阪神タイガース (1998 - 2010)

指導歴


日本代表 (2013 - 2015)

阪神タイガース (2016 - 2022)

国際大会
代表チーム 日本代表
五輪2008年
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矢野 燿大(やの あきひろ、本名:矢野 輝弘〈読み同じ〉、1968年12月6日 - )は、大阪府大阪市平野区出身の元プロ野球選手捕手)、野球評論家野球解説者
経歴

現役選手時代は、1991年から1997年まで中日ドラゴンズ1998年から2010年まで阪神タイガースに在籍。阪神時代の2003年2005年には、一軍の正捕手としてチームのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献した。

現役を引退してからは、評論・解説活動や野球日本代表のバッテリーコーチを経て、2016年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして阪神へ復帰[1]2018年には二軍監督としてチームウエスタン・リーグの優勝[2]2019年からは一軍監督としてチームを4年連続のAクラス入りに導いた[3]が、自身の意向から2022年限りで監督職を退いた(詳細後述)。
プロ入り前

市立瓜破小学校大阪市立瓜破中学校出身[4]。小学2年時に、地元の少年野球チームで軟式野球を始めた[5]。当初は遊撃手だったが、チームの捕手が故障してから捕手を務めた。卒業後に入学した瓜破中学校では、当時野球部がなかったため、バスケットボール部で活動していた。もっとも、在学中もバットの素振りを実家で毎日欠かさなかったほか、週末には軟式野球チームの「瓜破エンゼルス」でプレーを続けていた[6]

大阪市立桜宮高等学校への進学直後は、バスケットボール部から入部を誘われていたものの、結局は伊藤義博が監督・岡田龍生がコーチを務めていた硬式野球部へ入部[6]。少年野球での活躍を知る伊藤によって、1年時からレギュラーに抜擢された。伊藤が1年後に東北福祉大学の硬式野球部監督へ転じてからは、投手以外の全ポジションを経験。捕手として1年後輩の土井善和とバッテリーを組みながら、高山知浩などとクリーンナップを担うまでに打力を伸ばしたほか、3年時には主将も務めた。在学中には対外試合で3本の本塁打を記録したものの、春・夏とも甲子園球場での全国大会出場を果たせなかった。

高校卒業後は明治大学への進路も考えたが、東洋大姫路高出身の岡田コーチにより東洋大学セレクションを秋に受験した。セレクションでは当時の同大学監督高橋昭雄のお眼鏡にもかなったが、夏に捕手のセレクション枠が埋まっていたため泣く泣く不合格とされた。当初伊藤からの東北福祉大学への誘いを丁重に断っていたが、行き場を失っていた矢野を伊藤が再度勧誘し、伊藤の後を追う格好で同大学へ進学した[7]硬式野球部に入部してから、高校時代と同じく捕手以外のポジションもこなしていた。3年時の1989年には、三塁手として仙台六大学野球春季リーグ戦のベストナインに選ばれた[8]ばかりか、大学日本代表や第18回日米大学野球選手権のメンバーにも入った[9]。4年時の仙台六大学野球リーグ戦では、捕手として春季から2季連続でベストナインに選出。ラストシーズンであった秋季には、最優秀選手と最多打点のタイトルも獲得した[8]。なお、チームは矢野の在学中に仙台六大学のリーグ戦で優勝を続けていて、矢野の4年時には大学選手権で決勝、明治神宮大会準決勝に進出した。また、金本知憲は矢野と同じ年齢ながら、1年浪人の後に矢野の下級生として入学。矢野と共にチームの主軸として活躍すると、卒業後に阪神で再びチームメイトになっている。

大学からの卒業後に教職へ就くことも検討していた[10]が、1990年のNPBドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)と中日から2位で指名を受けた。指名の重複に伴う抽選の結果、中日が独占交渉権を獲得。4位で指名された大学の同級生吉田太投手と共に入団した。入団当初の背番号は2。この会議では、東北福祉大学から矢野・吉田のバッテリーに加えて、内野手の宮川一彦横浜大洋ホエールズ、吉田との両輪で投手陣を支えたエース小坂勝仁ヤクルトスワローズからの指名を経て入団している[11]
中日時代

入団1年目の1991年から一軍公式戦に22試合に出場したほか、一軍公式戦で本塁打をマーク。翌1992年には、一軍公式戦72試合の出場で打率.259を記録した。捕手としての出場は65試合、スタメンでの起用は22試合で、10月1日の対阪神タイガース戦(ナゴヤ球場)では1対1で迎えた延長10回2死1・2塁の打席で猪俣隆からサヨナラ安打を放っている[12]

1993年からは、一軍公式戦での出番が減少。1995年には57試合に出場したものの、ドラフト会議での1位指名を経て入団した荒木雅博背番号2を譲る格好で、1996年から自身の背番号を38に変更した。

1996年には、8月11日の対巨人戦(東京ドーム)において、野口茂樹とのバッテリーでノーヒットノーランを達成した[13]。この年は一部の公式戦に外野手として起用されるほど打撃が好調で、一軍公式戦56試合の出場ながら、打率.346、7本塁打、19打点をマーク。10月6日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では、「1番・中堅手」としてスタメンで起用されると、2回裏の第2打席で宮本和知からシーズン7号本塁打を放った。中日の一軍は2日後(8日)の同カードで主催公式戦におけるナゴヤ球場の使用を終えたものの、この試合では中日の選手から本塁打が出ず、矢野に出場の機会はなかった。その結果、矢野が6日の対巨人戦で記録した本塁打は、中日の選手がナゴヤ球場の一軍公式戦で最後に放った本塁打にもなっている。

1997年には、一軍公式戦で入団後最多の83試合に出場。捕手としての出場は60試合[14]、スタメンで出場した試合は62試合だったが、シーズン終盤は主に右翼手として起用された。しかし、シーズン終了後に関川浩一久慈照嘉との交換トレードで、大豊泰昭と共に阪神へ移籍[15]。移籍を機に、現役を引退するまで背番号39を着用するようになった。当時の中日監督で、後に阪神でも指揮を執った星野仙一が生前に語ったところによれば、当初は正捕手の中村武志を放出する前提で阪神と交渉していて、交渉が成立した場合には矢野を中村の後釜に据えていたという[16]
阪神捕手時代

1998年には、一軍監督の吉田義男からリード面を高く評価されたことを背景に、正捕手として一軍公式戦110試合に出場。5月26日の対中日戦(倉敷マスカットスタジアム)でもスタメンマスクを任されると、バッテリーを組んでいた川尻哲郎をノーヒットノーランの達成に導いた。奇しくも、最初にノーヒットノーランを達成させた野口を、中日はこの試合に先発させていた[17]。シーズン通算では打率が.211にとどまったものの、7月7日の対横浜ベイスターズ戦(大阪ドーム)では、1点ビハインドの9回裏2死1・2塁の打席で佐々木主浩(大学の1年先輩)からサヨナラ安打をマーク。佐々木の一軍公式戦連続試合セーブ(日本プロ野球における公式戦最長記録)を22試合で止めたばかりか、結果として、佐々木にこの年唯一の黒星を付けた[18]

1999年には、前年までヤクルトを指揮していた野村克也をチームが監督へ招聘したことを背景に、プロ入り9年目で初めてシーズンの最終規定打席に到達。さらに、リーグ10位の打率.304を記録した。セ・リーグの最終規定打席以上で打率3割を記録した阪神の捕手は、1979年の若菜嘉晴(打率.301)以来20年振りであった。8月13日の対ヤクルト戦(大阪ドーム)では、2対2で迎えた延長15回裏2死満塁の打席で高津臣吾からサヨナラ安打を放っている[19]

2000年には、2年連続でセ・リーグの最終規定打席に到達。阪神の捕手としては若菜以来20年振りの記録であったが、「捕手の大先輩」に当たる監督の野村からは、配球を徹底的に非難されていた。さらに、自身が移籍してもチームが長期の低迷から脱していないことから、一時は優勝を狙えるチームへの移籍を模索。シーズン中にFA権を初めて取得したことをきっかけに、捕手の補強を目指す巨人が矢野の獲得調査を水面下で進めていたが、結局はFA権の行使を宣言したうえでチームに残留した[20]。野村からは2001年にも薫陶を大いに受けていたものの、野村がチームの3年連続最下位などを理由にこの年限りで監督を辞任したことから、球団は中日の監督を退いたばかりの星野を野村の後任として招聘。前述したように、星野は中日の監督時代から捕手としての矢野の力量を高く評価していたが、当の本人は「(中日からのトレードに続いて)また星野監督に捨てられてしまう」と思うほど危機感を募らせていたという[21]

2002年には、星野から「開幕ダッシュのMVP」に挙げられるほど、正捕手として順調なスタートを切っていた。しかし、4月13日の対横浜戦(阪神甲子園球場)で9回表の守備中に本塁上のクロスプレイで左肩を脱臼[22]。戦線に復帰するまで1ヶ月を要した[23]ものの、7月26日の対中日戦(甲子園)では、同点で迎えた9回無死1塁の打席でチームを22年振りの3試合連続サヨナラ勝利に導く安打を落合英二から放った(実際には左翼手の蔵本英智が打球を後逸)[24]。チームはシーズン中盤まで好調だったが、矢野が8月10日の対中日戦(ナゴヤドーム)での骨折によって戦線を離脱したこと[25]を境に失速した。この結果を受けて、星野はシーズン終了後に、在籍選手の3分の1を入れ替える大型補強を球団に指示。矢野がチームに残留した一方で、東北福祉大学から広島東洋カープへ入団した後にFA権の行使を宣言していた金本が移籍したほか、日本ハムファイターズから正捕手の野口寿浩下柳剛(矢野と金本と同じ年齢の左投手)が大型トレードで入団した。

2003年には、野口の入団で正捕手の座が危ぶまれながらも、金本の影響で強い体作りに着手。シーズン当初のチーム構想では「矢野を休ませる」という理由で野口を週に1回のペースでスタメンに起用することになっていた[26]が、実際には矢野が正捕手として投手陣をリーグトップの防御率(3.53)に導いたばかりか、チームの18年振りセ・リーグ優勝に大きく貢献した。また、「7番・捕手」として藤本敦士(8番・遊撃手)と共に「恐怖の下位打線」と呼ばれるほどの打力を発揮した末に、リーグ3位の打率.328をマーク。甲子園球場での対横浜戦では勝負強さが顕著に表れていて、6月17日には2点ビハインドで迎えた9回裏無死満塁の打席でデニーから逆転サヨナラ3点適時三塁打[27]、9月5日には1点ビハインドで迎えた9回裏無死1塁の打席でエディ・ギャラードから逆転サヨナラ2点本塁打を放った[28]


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