矢部新田
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矢部新田
大字
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度34分37秒 東経139度23分05秒 / 北緯35.577度 東経139.3846度 / 35.577; 139.3846
日本
都道府県 神奈川
市町村 相模原市
行政区中央区
地区大野北地区

人口情報(2020年(令和2年)10月1日現在[1]
 人口0 人
 世帯数0 世帯

面積[2]
 0.324780651 km²
人口密度0 人/km²
郵便番号252-0208[3]
市外局番042(相模原MA[4]
ナンバープレート相模
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矢部新田(やべしんでん)は神奈川県相模原市中央区大字
地理

矢部新田は17世紀後半に相模国高座郡に開かれた、相模原地域で最も早く開発された新田である。北隣の上矢部村を本村とすることから上矢部新田(かみやべしんでん)とも呼ばれた。明治以降はほとんどの耕地が畑として利用されていたが、1930年代後半からの陸軍施設の進出と戦後の市街化により、現在は農村的景観を全く失っている。1964年昭和39年)以降に実施された住居表示により元の新田集落の中心部が矢部一丁目?四丁目となったほか、淵野辺、富士見の各一部および矢部新町となっており、現在「矢部新田」として存続するのは在日米陸軍相模総合補給廠敷地内の住居表示未実施区域のみである。
歴史

元は相模原台地(相模野台地)上に広がる原野で相模野と総称されたうち、矢部野と呼ばれて周辺農村入会の草刈り場とされていた区域であった。1675年延宝3年)に江戸町人の相模屋助右衛門の願い出により矢部野の開墾が始まり、1684年貞享元年)の検地で上矢部新田村(または矢部新田村)として独立した。1705年宝永2年)から1706年(宝永3年)にかけて旗本2家の相給となったのち、1728年享保13年)には烏山藩との相給となった。

新田集落は区域内を通過し「八王子道」などと呼ばれる往還沿いに立地した。この往還は津久井往還神奈川往還(浜街道)の一部としても利用され、この往還沿いには19世紀前半の文政年間に淵野辺新田(現中央区共和、東淵野辺)、天保年間に清兵衛新田(現中央区相模原、清新)が成立している。開墾地は台地上であるために地下水位が低く、周辺を流れる河川もないために用水を得ることが困難で、水田は開かれずに主に雑穀を栽培する畑地として利用されたが、生産性はあまり高くなかった。往還沿いにある村富神社は新田の開発にあたって創建された稲荷社を起源とするという。

幕府崩壊後、1868年慶応4年・明治元年)に神奈川府(のち神奈川県)が設置されると矢部新田村(上矢部新田村)の旧旗本領分が同府の管轄とされた。烏山藩領分も1871年(明治4年)7月の廃藩置県により烏山県の管轄とされたあと、同年11月の府県再編で神奈川県の所属となった。1889年(明治22年)4月1日町村制施行に際する明治の大合併で上矢部村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村と合併して高座郡大野村の一部となり、同村の大字矢部新田となった。

1908年(明治41年)に開業した横浜鉄道(現・JR東日本横浜線)が矢部新田を通過したが大字内にはが設けられず、淵野辺駅の駅勢圏内に属した。

明治以降、生糸輸出と養蚕業の発展とともに台地上一面に畑が広がっていた当地域が大きく変貌するきっかけとなったのは、1938年昭和13年)8月の陸軍相模兵器製造所(1940年より相模陸軍造兵廠)の開設である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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