矢橋賢吉
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矢橋賢吉
建築雑誌より
生誕1869年10月24日
(旧暦明治2年9月20日)
美濃国不破郡赤坂村岐阜県大垣市
死没 (1927-05-24) 1927年5月24日(57歳没)
出身校東京帝国大学工科大学
職業建築家
受賞勲五等双光旭日章(1916年)
従四位(1916年)
第一回国勢調査記念章(1921年)

所属工手学校大蔵省
建築物国会議事堂

矢橋 賢吉(やばし けんきち、1869年10月24日明治2年9月20日) - 1927年(昭和2年)5月24日)は、日本の建築家大蔵省営繕官僚。明治建築界三大巨匠の一人とされた大蔵省営繕妻木頼黄の右腕。国会議事堂・旧総理大臣官邸 (総理大臣公邸)・枢密院庁舎(皇宮警察本部) などが代表的な作品。近代公共建築の中心人物。死没日をもって、勲二等旭日重光章受章、叙正三位[1]

「 ⇒先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る」矢橋家[注釈 1][2][3][4][5]・惣本家の出身。
人物

美濃国不破郡赤坂村出身。父は惣本家当主・矢橋藤十郎、母は矢橋宗太郎二女勝後改幾世[6]矢橋徳次郎は賢吉の長兄、矢橋為吉は次兄。惣本家初代藤十郎(孝)の長男惣四郎が惣本家を継ぎ藤十郎を襲名、賢吉の長兄徳次郎へとつながり、また一方五男徳四郎は三郎兵衛として分家の後、本家となり、赤坂の素封家矢橋宗太郎へとつながってその長男矢橋敬吉[7]が本家を継ぎ、さらに敬吉の弟亮吉が南矢橋として分家し、明治34年大理石業を創始した[8]敬吉・友吉・亮吉[9]は、一族であり、本家の人でもある。大の釣り好きで、近くの杭瀬川へ足を運ぶことが多かったらしく、囲碁は初段の実力、盆栽を好み、浄瑠璃は素人の域を脱するほどであったという。大垣中学 (岐阜県立大垣北高等学校)第一高等中学校を経て東京帝国大学工科大学造家学科へ進学する (関係深い本家・亮吉も、共々上京、高等商業 (現一橋大学) 入学、同郷・平生釟三郎と苦学、卒業)。在学中に辰野金吾中村達太郎石井敬吉小島憲之木子清敬らの薫陶を受ける。卒業設計のテーマは「A HOTEL」[10]。卒業後、長崎税関監視部庁舎新築の設計監督を依嘱される。以降、建築家、営繕官僚として、明治、大正期の近代建築に携わる。明治建築界三大巨匠の一人、妻木頼黄の片腕といわれた。没時、正三位勲二等旭日重光章を拝受、またこの時、生前の殊勲によって昭和天皇から白絹二巻もあわせて拝受する[1]
略歴

1894年(明治27年) - 東京帝国大学工科大学造家学科卒業。

1896年(明治29年) - 工手学校造家学科教授就任。

工手学校とは、帝国大学、東京職工学校などの大学・高専出身技師を補助する工手の養成を目的とし、工科大学教授らによって設立された私立の夜間学校。現在の工学院大学の前身。


1898年(明治31年) - 大蔵省臨時葉煙草取扱所建築部技師に就任。この時、妻木頼黄と出会う。

1899年(明治32年) - 臨時税関工事部技師となる。

1902年(明治35年) - 工手学校造家学科教授を辞任。農商務省より、1904年開催の米国博覧会参同準備委員に任ぜられる。その嘱託を受け、敷地選定のためアメリカに渡る。翌年に帰国。

1904年(明治37年) - 臨時煙草製造準備局技師となり、建築部第一課長を命ぜられる。この時、臨時税関工事部技師、大蔵技師を兼任している。

1905年(明治38年) - 大蔵省臨時建築部技師となり 第一課長となる。

1906年(明治39年) - 大韓医院建築工事臨時監督として大韓帝国に渡る。翌年にも訪れている。

1908年(明治41年) - 武田五一ともに欧米へ出張。


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