矢口
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この項目では、東京都大田区の町名について説明しています。その他の用法については「矢口 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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矢口
町丁
「矢口の渡し」跡と多摩川大橋(2014年3月)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度33分48秒 東経139度41分38秒 / 北緯35.563369度 東経139.693856度 / 35.563369; 139.693856
日本
都道府県 東京都
特別区 大田区
地域蒲田地域

人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[1]
 人口16,521 人
 世帯数9,257 世帯

面積[2]
 0.750457123 km²
人口密度22014.58 人/km²
郵便番号146-0093[3]
市外局番03(東京MA[4]
ナンバープレート品川
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ウィキポータル 東京都
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矢口(やぐち)は、東京都大田区。現行行政地名は矢口一丁目から矢口三丁目。住居表示実施済区域。
地理

大田区の南部に位置する。地域北部は概ね環状八号線を境に大田区千鳥に接する。地域東部は第二京浜国道1号)を境に大田区多摩川に接する。地域南部一帯は多摩川となり、これを境に神奈川県川崎市になる。地域西部は大田区下丸子に接する。

多摩川沿いには旧堤通りが通っている。地域内を多摩堤通り東急多摩川線線路が通っており、武蔵新田駅がある。地質沖積低地であり[5]地形はおおむね平坦である。多摩川と堤防の間は緑地になっている。

都市計画法上の用途地域は、駅周辺と商店街近隣商業地域である他は大半が準工業地域に指定されており[6]住宅と中小規模の工場が混在する地域となっている。
地価

住宅地の地価は、2023年令和5年)1月1日公示地価によれば、矢口2-12-10の地点で48万8000円/m2となっている[7]
歴史洋画家・和田英作の代表作『渡頭の夕暮』。明治中期の矢口の渡しが作品のモチーフである

矢口は渡船で名が知られる。1358年延文3年)、新田義興がこの矢口渡(やぐちのわたし)で謀殺され、住民が義興を祀って新田神社を創建した[8]。「矢口」の地名は正木文書のうち、1395年応永2年)の『岩松氏所領注文』に初出する。

義興の頃の多摩川は現在よりも大きく東に湾曲しており、渡船場は現在の新田神社付近にあったと思われる。その後の渡船場は流路の変遷と共に何度か位置を変え、江戸中期に、東八幡神社の南に落ち着いた。[9]

地域の南北を鎌倉街道が縦貫していた。現在の、東八幡神社前から新田神社前の商店街を経て地域の北西端に至る道である。[10][11]

江戸時代の地名は荏原郡矢口村であった[8]1770年明和7年)に義興の謀殺を題材とした福内鬼外(平賀源内)作の浄瑠璃神霊矢口渡』が上演され人気を博すと、新田神社は多くの参詣者を集めるようになった。

1889年明治22年)周辺8ヶ村を編入して村域を拡大、旧村域は大字矢口となった。1928年昭和3年)町制を施行する。1932年(昭和7年)矢口町は11ヶ村に分離し、大字矢口が蒲田区矢口町となった。1949年(昭和24年)多摩川大橋が完成し、中世以来続いた矢口の渡しは廃止された。1966年(昭和41年)住居表示により矢口や東矢口が成立した。

1969年(昭和44年)11月16日、矢口三丁目の第二京浜で、佐藤栄作首相の訪米阻止を主張する学生デモ隊が暴徒化して路線バスを焼き討ち、さらに消火作業にかけつけた蒲田消防署の消防車にも火炎瓶が投げつけられ3台が炎上。3人が負傷[12]
地名の由来

日本武尊がこの地で矢合わせをしたことによると伝えられる[8]。『新編武蔵風土記稿』によれば、もとは矢食村と称したという[8]
世帯数と人口

2023年(令和5年)1月1日現在(東京都発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目世帯数人口
矢口一丁目2,612世帯4,220人
矢口二丁目3,563世帯5,957人
矢口三丁目3,082世帯6,344人
計9,257世帯16,521人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

人口推移年人口
1995年(平成7年)[13]13,256
2000年(平成12年)[14]13,169
2005年(平成17年)[15]13,892
2010年(平成22年)[16]14,270
2015年(平成27年)[17]14,807
2020年(令和2年)[18]15,900


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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