矢作川
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矢作川
豊田市簗平町付近(2013年平成25年))
水系一級水系 矢作川
種別一級河川
延長117 km
平均流量37.46 m³/s
(岩津観測所:2000年)
流域面積1,830 km²
水源大川入山(長野県)
※水系としての源
水源の標高1,908 m
河口・合流先三河湾(愛知県)
流域 日本
長野県岐阜県愛知県


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岡崎市周辺の地理

矢作川または矢矧川[1](やはぎがわ)は、長野県岐阜県愛知県を流れて三河湾に注ぐ河川一級水系矢作川の本川。最上流部は「根羽川」とも呼ばれる[2]

矢作の名は、矢作橋の周辺にあったを作る部民のいた集落に由来している。矢に羽根を付けることを「矧(は)ぐ」と言ったことから「矢矧(やはぎ)」となり、後に矢作へ書き換えられた[1]。伝承によれば、日本武尊東夷征伐の際、川の中州にあった竹で矢を作り勝利したことから「矢作川」と呼ばれるようになったとされる(矢作神社も参照のこと)。

小惑星「(4941) Yahagi」は矢作川に因んで命名された[3]
地理

矢作川本川の源流は長野県下伊那郡根羽村愛知県境付近の茶臼山北麓から流れる「小戸名川」であるが[2]、水系全体の源流は支川・上村川上流の下伊那郡阿智村平谷村の境にある大川入山西麓から流れる「柳川」であり[2][4][5]、矢作川関連の資料では大川入山を源流としているものが多い[2]。大川入山付近を境として北西側は木曽川水系、東側は天竜川水系へと分かれる。

幹線流路延長は117km、流域面積は1,830km2で、3県にまたがる8市4町2村に及ぶ[4][5]。流域の平均年間降水量は山間部で約1,600から2,400mm、平野部で約1,400mm[5]。地質は中生代白亜紀)から新生代にかけて生成された花崗岩が広く分布しており、地表の風化した脆い花崗岩層が流出する典型的な砂河川となっている[5][6]

源流から奥矢作湖(矢作ダム)までの上流部[5]では、愛知県豊田市岐阜県恵那市の境付近の山岳地帯をおおむね西に流れ、上村川・名倉川・段戸川などと合流する。矢作ダムを過ぎると南西に流れを変え、勘八峡を過ぎると挙母盆地(豊田盆地)へと出る[4]明治用水頭首工を過ぎ最大支流の巴川が合流すると平野部に出るが、左右を洪積台地で挟まれた狭長な沖積平野が形成される程度であり広い扇状地はみられない[4][7]。これには上流部の山地が脆い花崗岩質であるため砂は多いものの扇状地形成に影響するの流出は多くなく、少ないながらも流出した礫も挙母盆地で堆積して平野部までほとんど届かないことが要因として考えられる[7]

平野部では蛇行して流れるが、両岸にはかつて矢作川が乱流した当時の河道跡や自然堤防がみられる[4][7][6]岡崎市中心部で乙川が合流するとやや南西に流れを変え、矢作古川が分流すると西側の台地を横切るがこの区間は人工的に開削された河道であり、旧矢作川本流は矢作古川へと流れていた[4][7]。台地を抜けると西尾市三河湾へと注ぐまでが三角州地帯に相当するが、人工的に開削された矢作川本川の河口部には油ヶ淵付近を除いてほとんど三角州が形成されておらず、大部分は砂州干拓地が広がっている[7][8]。一方で旧本流である矢作古川や旧弓取川(後述)沿いには、河口部に広い三角州の形成がみられる[7]
歴史矢作川下流支派川の河川改修の歴史

矢作川および矢作川水系の下流域では、中世以降に数度の河川改修が行われている。記録にある最初の工事は1399年(応永6年)の支川・乙川に築かれた「六名堤(むつなつつみ)」であり、岡崎城築城(1452年?1455年)にあわせて堤防が築かれおおよその流れが固定されたとされる[6]。この地域で比較的早くから大規模な河川改修が行われた背景として、三河国室町幕府を開いた足利氏の第2の拠点であったことに加え、下流域が吉良氏など足利一門の所領であったために幕府としての工事が行いやすかった可能性が考えられる[9]
矢作川・矢作古川・弓取川

巴川合流点以下は矢作川の下流平野部にあたり、矢作川の両岸にはかつて乱流した矢作川による河道跡や自然堤防跡がみられる[7][6]。矢作川本流はかつて広田川筋や鹿乗川筋を流れたと考えられるが[7][6]、おおよそ現在の位置に移った後に前述のように築堤されたことで流路が固定されていたが、現在の矢作古川分岐点以下は江戸時代1605年慶長10年)に徳川家康の命を受けて水害対策を目的に開削された新川である[4][8]

新川開削以前の矢作川本流は矢作古川筋であったが、これも一部人工的に変更された流路である[8]。矢作古川には支川の広田川が合流しているが、広田川が矢作古川に接近する地点以下の河道は元々広田川の河道であり、矢作古川本川はこの付近から西へと流れる後に「弓取川」と呼ばれる流路を流れていた[8]。矢作古川と広田川は隣接して流れており、1645年正保2年)に矢作古川は広田川筋へと付け替えられ、翌1646年(正保3年)に弓取川筋への分派口が締め切られたことで現在の形状となった[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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