矢作 公一基本情報
国籍 日本
出身地埼玉県さいたま市
生年月日 (1966-12-29) 1966年12月29日(57歳)
身長
体重175 cm
105 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション一塁手
プロ入り1988年 ドラフト6位
初出場1989年7月29日
最終出場1991年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
立教高等学校
立教大学
日本ハムファイターズ (1989 - 1992)
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矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手、スポーツライター。 医者の息子として生まれ、跡継ぎとして期待されたが野球の道に進む。立教高校(現・立教新座高校)から、立教大学へ進学。立教大では、高校時代から1年先輩の長嶋一茂とクリーンナップを組んだこともあった。東京六大学リーグ通算83試合に出場し、245打数71安打、打率.290、17本塁打(歴代7位タイ、立教大学の選手としては当時歴代1位[1])、38打点。ベストナイン2回。第16回日米大学野球選手権大会オールジャパンのメンバー。 立教大から1988年ドラフト6位で大学の先輩である大沢啓二が常務であった日本ハムファイターズから指名され、1989年入団。守備、走塁にかなり難が有り、打撃のみに期待がかかった。(「ハムの原料として入団」と伊集院光がよくネタにする。またドラフト指名時のインタビューも自身が「ハム大好きなんですよ」と言いながら日本ハムの商品に齧り付くというものだった。) 1992年の現役引退後に、埼玉県川口市にお好み焼き屋「ピンチヒッター」を開いた(2005年閉店)。またスポーツライターとして、1990年代に週刊ベースボールでイースタン・リーグのリポート記事を担当していた。 その後は父の会社を継ぎ、少年野球クラブチームのコーチや高校野球の指導、自ら設立した「Y.S.B野球塾」を通じて子供への指導を行っている。福岡ソフトバンクホークスの上林誠知は教え子。 2014年1月20日、学生野球資格を回復(第1回研修認定者)[2]。この年より埼玉県の山村学園の臨時コーチに就任した[3]。 オートレースの熱烈なファンであり、2017年5月より、チャリロト公式サイトにおいてオートレースの予想コラムを寄稿している。 年
来歴・人物
詳細情報
年度別打撃成績
度球
団試
合打
席打
数得
点安
打二
塁
打三
塁
打本
塁
打塁
打打
点盗
塁盗
塁
死犠
打犠
飛四
球敬
遠死
球三
振併
殺
打打
率出
塁
率長
打
率O
P
S
1989日本ハム101090200021000010040.222.300.222.522
19901419190300033000000070.158.158.158.316
19919980100013000010050.125.222.125.347
通算:3年33383606000670000200160.167.211.167.377
記録
初出場:1989年7月29日、対近鉄バファローズ16回戦(藤井寺球場)、8回表に田中幸雄の代打として出場
初打席・初安打:同上、8回表に佐々木修から
初打点:1989年8月10日、対オリックス・ブレーブス19回戦(西宮球場)、8回表に二村忠美の代打で出場、山内嘉弘から
初先発出場:1990年7月3日、対ロッテオリオンズ12回戦(東京ドーム)、6番・指名打者として先発出場
背番号
33 (1989年 - 1992年)
エピソード
炎のチャレンジャーの「回転寿司30皿制限時間内に食べたら100万円」に、一般参加者として挑戦したものの達成ならなかった(100万円の使い道は「日本ハムの優勝旅行についていく」だった。)。
脚注[脚注の使い方]^ 長島一茂『三流』、株式会社幻冬舎、2001年、31ページ、ISBN 4-344-00087-0、その後、高校の後輩で大学でも一緒にプレーした山口高誉が19本を放ち、歴代2位となる
^ “学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者
^ 元プロのあの巨漢スラッガーが指導。 山村学園は埼玉4強を脅かす存在
関連項目
埼玉県出身の人物一覧
立教大学の人物一覧
北海道日本ハムファイターズの選手一覧
外部リンク
個人年度別成績 矢作公一 - NPB.jp 日本野球機構
オートレース予想
表
話
編
歴
日本ハムファイターズ - 1988年ドラフト指名選手
指名選手
1位:中島輝士
2位:鈴木慶裕
3位:川名慎一
4位:上岡良一
5位:難波幸治
6位:矢作公一
表
話
編
歴
野球日本代表 - 1987年日米大学野球選手権大会