瞿秋白
プロフィール
出生:1899年1月29日
(清光緒24年12月18日)
死去:1935年(民国24年)6月18日
中華民国福建省長汀県
出身地: 清江蘇省常州府武進県
職業:革命家・政治家・文学家・評論家
各種表記
繁体字:瞿秋白
簡体字:瞿秋白
?音:Qu Q?u bai
ラテン字:Ch'u Ch'iu-pai
和名表記:く しゅうはく
発音転記:チュー・チウバイ
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瞿 秋白(く しゅうはく)は、中華民国初期の革命家・散文作家・文学評論家。中国共産党の初期最高指導者の一人である。またの名は双(あるいは霜、爽)。号は熊伯(あるいは雄魄)。弟は瞿ホ白・瞿景白・瞿堅白。 瞿秋白の祖籍は江蘇省常州府宜興県で、1899年1月29日に江蘇省常州府武進県城内で生まれた。瞿氏一族は代々官職に就いており、瞿?甫
生涯
出自
瞿秋白は1904年、5歳の時に私塾に入学し、翌1905年に小学へ、1909年に中学に入学した。辛亥革命後、瞿世?の兄の瞿世琥が官職を退いたことにより瞿世?一家への援助が止まり、一家はますます困窮した。瞿秋白も学費滞納のため転学を余儀なくされた。父の瞿世?が家族を置いて家を出てしまっていた中で、瞿秋白の母は生活苦のため1916年に自殺した[2]。瞿秋白はその後、母方のおじの妻の援助を得て、漢口にいた従兄の瞿純白の家に寄宿し、武昌外国語学校にて英語を学習した。 1917年の春、瞿純白が外交部に就職するのに伴い、瞿秋白も北京に上京した。瞿秋白は普通文官試験を受験したが合格せず[3]、代わりに外交部が運営していたロシア語専修館に学費免除合格し、ロシア語を学んだ。 1920年8月、瞿秋白は北京の『晨報
ロシア文学生
モスクワ時代
1921年秋、東方大学が中国班を開設する。瞿秋白は当時のモスクワでは数少ない通訳であったことから東方大学の翻訳と助教となった。1922年、1月から2月にかけてにコミンテルンが開催した極東諸民族大会に参加。この年、モスクワにて同郷の張太雷の紹介を経て中国共産党に加入した。同年末、陳独秀が中国共産党代表としてモスクワに来た際には通訳を務めた。 陳独秀がソビエトロシアから帰国する際、陳独秀は瞿秋白に対し帰国を勧めた。そのため瞿秋白も陳独秀と共に北京へと戻った。1923年夏、于右任とケ中夏
上海にて
1924年に国民党が改組されると瞿秋白は国民党第一届大会に出席した。また上海と広州を往復しつつ翻訳業を務め、国民党の業務に関わった。
1925年1月から瞿秋白は中国共産党の第4、5、6次全国代表大会にて中央委員や(第4次)や、中央政治局委員(第5次)等に選出され、共産党指導者の一人となった。 1927年4月の上海クーデターにより第一次国共合作が崩壊する中、同年7月12日に陳独秀は職務を停止させられ、張国Zが代理として共産党中央の責任者となった。中国共産党が武漢国民政府とも決別した後の8月7日、新任の第三インターナショナル中国担当のルミナス(Besso Lominadze)とHeinz Neumannにより、八七会議が漢口の日本租界で開催され、陳独秀は正式に罷免された[5]。そして第三インターナショナルの支持を受けて[6]瞿秋白が臨時中央政治局常務委員兼中央指導者に任命された[7]。陳独秀の後を襲い、中国共産党の3人目の最高指導者となったのである。瞿秋白の指導方式は強引な陳独秀のやり方とは異なり、一般的な政治主張を発表するに留まり、党組織と軍事方面では全く権力を振るわなかった。瞿秋白が中央政治局の責任者であった期間(1927年8月から1928年5月)では何度も蜂起(南昌起義・秋収起義など)が行われたが、全て失敗した[8]。
中共の指導者