瞽女
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Clip 葛飾北斎北斎漫画』第8編(文政元年〈1818年〉刊)15丁に「'"`UNIQ--templatestyles-00000001-QINU`"'肉障(あきめくら)[注 1]」の題で掲載されている瞽女の顔。左列の4人と中列の右上以外の3人、計7人が瞽女。それ以外は座頭盲女(ごぜ) / 黒川真道編纂『日本風俗図絵』第3輯(1914-1915年大正3-4年〉刊行)に掲載の一図。大尽(だいじん)(富豪、あるいは、遊廓で大金を使う客。)の酒宴に招かれた3名の瞽女が、舞踊を披露する舞子(まいこ)(舞妓。※この図の左ページに描かれている。)と気を合わせて三味線爪弾いている。ここでの彼女らは流行りの髪型と豪奢な着物で美しく装っている。

瞽女(ごぜ)は、目明きの手引きに連れられて、三味線を携えて僻陬の村々を唄をもって渡り歩いた[1]日本女性盲人芸能[2]を意味する歴史的名称。その名は「盲御前(めくらごぜん)」など、中世以降の貴族などに仕える女性の敬称である「御前」に由来する説と[3][2]、中国王朝の宮廷に務めた盲目の音楽家である「瞽師」や「瞽官」の読みから転じた「瞽女(こじょ)」に由来する説がある[4]

近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人である[注 2]。女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もある[5]。時にやむなく売春をおこなうこともあった[6][7]
歴史
近代以前

瞽女の起源は不詳であるが、室町時代前期に書かれた『看聞日記』には「盲女」と記され[8]、同後期に書かれた『文明本節用集』には「御前コゼ 女盲目(ごぜん こぜ おんなめくら)」と記され、同末期に描かれた『七十一番職人歌合』にも、鼓を打ちながら『曾我物語』を語る姿が描かれている[9][5]。近世では三味線やを弾くのが普通となった[2]。元禄年間の頃には、都や町中では富家の子女に弾き方を教えたり、宴席で演奏を行うことが多くなる一方で、農村地方では、都で流行った浄瑠璃を、後述する「クドキ」として弾き語りながら村々を渡り歩くことを生業とした[10]。この瞽女の演目(瞽女唄)のひとつである「クドキ(口説節)」は、浄瑠璃から影響を受けた語りもの音楽であるが、義太夫節よりも歌謡風になっている[11]江戸時代の瞽女は越後国高田(上越市)や長岡(長岡市)、駿河国駿府静岡市)では有渡郡府中下魚町金米山宝台院傍ら[12]屋敷を与えられて一箇所に集まって生活しているケースがあり、これを「瞽女屋敷」と称した[13]当道座の地方組織の成立に伴い、各地の城下町や門前町、宿場町に独立した瞽女の組織が結成されたが、それを束ねる全国組織は存在せず、幕府も地域の慣行に合わせる形で管理を各藩に委ね、各藩も当道座の地方組織の座元に取り締まりを一任したが、実態は各々の座元に従属した瞽女頭が組織を束ね、揉め事の際は当道座が介入する形が主であった[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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