睦五朗
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「睦五郎」はこの項目へ転送されています。当人の芸名の由来となった魚類のムツゴロウについては「ムツゴロウ」を、愛称がムツゴロウの作家・動物愛好家については「畑正憲」をご覧ください。

むつみ ごろう
睦 五朗
1962年
本名中西 清二[1]
別名義睦 五郎(旧芸名)
生年月日 (1934-09-11) 1934年9月11日
没年月日 (2021-06-05) 2021年6月5日(86歳没)
出生地 日本兵庫県神戸市東灘区
血液型O型
ジャンル俳優声優
活動期間1955年 - 2021年
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睦 五朗(むつみ ごろう[出典 1]1934年昭和9年〉9月11日[出典 2] - 2021年令和3年〉6月5日 [6])は、日本俳優声優。本名は中西 清二(なかにし せいじ)[5][4]、旧表記は睦 五郎[2][4](読み同じ)。

兵庫県[5]神戸市[2][4]@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}東灘区[要出典]出身。兵庫県立御影高等学校卒業[5]昭和九年会のメンバー。シナリオ文芸協会[7]、田中事務所[8]フリーランス[5]、西村事務所[9]を経て、北斗七星プロジェクトに所属していた。趣味はガーデニングゴルフ麻雀
来歴

高校卒業後、劇作家の三好十郎と出会い、三好が主宰する劇団戯曲座に参加する[4]。元々は作家を志して三好に師事したが才能がないと言われ、三好の勧めにより俳優に転向した[10][4]

1955年に映画『沙羅の花の峠』でデビューし、以降、映画・テレビドラマ・舞台で活躍する[4]時代劇悪役特撮番組でも知られる。

また1964年から1967年にかけて放映されたアメリカのテレビドラマ『逃亡者』でデビッド・ジャンセンの演ずる主人公・リチャード・キンブルの吹き替えを担当し、渋みのある声から声優・ナレーターとしても活動[4]

晩年はテアトルアカデミーにて講師を務め、後身の育成にもあたっていた[11][12]

2021年6月5日、誤嚥性肺炎のため亡くなっていたことが判明した。訃報は1年以上経った2023年に伝えられた。
人物・エピソード

芸名の由来は、一時休止していた役者活動を再開する際に訪れた料理屋で食べたムツゴロウ(?五郎)のあまりの美味に、見かけは悪くても味のある俳優になれるように、との思いから。

俳優を目指すきっかけとなったのは、中学時代の社会科教師が元新劇俳優であり、高校時代の英語教師が元文芸座の演出家であることから演劇志向が強くなったため[13]

デビュー当時は貧しく、コッペパン1個で3日しのいでいた[4]。デビュー作の『沙羅の花の峠』では苦学生役を演じ、役作りせずともやせ細っていたが、そのことが真に迫った苦学生の演技として評価され、役者として注目されるようになったという[4]

仕事に関して「コツコツ積み重ねてやって来た」ことから、ギャラを値切られることに対しては強い嫌悪感を持っていた。そのため、持ち役だったデビッド・ジャンセン吹き替えも、製作者側に「多少値切られてもジャンセンのだったらやるだろう」という意図があった場合は断っていたという[14]

演技については、自身が良いと思っていても評価されないなど自身と他人の考えが一致することは少ないとの考えから、自身がどういう役者であるかというようなこだわりは持たないことを信条としていた[4]

デビッド・ジャンセンとは対面したことがあり、ジャンセンに「君も大酒飲みだろう。大酒飲みでなければ自分の声はアテられない」と言われたという。また、ジャンセンが亡くなった際は「まだ若いのに…何年か前に日本で実際に会っているが、映画やTVで見るジャンセンより実物の方がはるかに魅力的ですね。晩成型というか、これから面白くなる人のような気がしたのに、若死にして残念!」とコメントしている[14]

SF作品では奇想天外なことが起こるので面白いと感じていた一方、『エスパイ』では宙吊りにされたり、『ゴジラ対メカゴジラ』や『惑星大戦争』では顔に色を塗られるなど、苦労も多かったことを語っている[4]。宇宙人などの非現実的な役柄を演じる際は、力を抜いた浮遊感のある喋り方を心がけていた[4]

ファイヤーマン』などで共演した岸田森とは、1963年のNHKドラマ『魚住少尉命中』で、睦が潜水艦の艦長で岸田が隊員役であった。以来共演することが多かった[注釈 1]。『ファイヤーマン』主演の誠直也の台詞回しに標準語のアクセントに難があったため、岸田とともに何度もやり直しを命じていた。誠は後年のインタビューで、「『ファイヤーマン』で睦と岸田と共演したことで、俳優を続けていく確信を持つことが出来た」と述べている[15]

『ファイヤーマン』は、基地で指令を出すだけのシーンが多いために気が緩んでしまい、演技が甘くなってしまったと後年のインタビューにて後悔の念を述べている[13]

岸田とはプライベートでも親交が深く、飲み仲間として2人で相当な酒量を飲んでいたという[4]。岸田とともにアジア旅行に赴いた際には、現地の警察に捕まった岸田を引き取りに行くこともあった[4]。岸田の晩年には、同じ病院に入院していたこともあり、回復した睦は病院に要望して面会謝絶の岸田を見舞った[4]。睦は、師である三好の戯曲『炎の人』を制作し岸田がゴッホを演じることを約束していたが、見舞いの直後に岸田は死去し、約束が果たされることはなかった[4]。睦は、岸田の悲壮な死に様にしばらくの間立ち直ることができなかったという[4]
出演作品
映画

沙羅の花の峠(1955年)
[注釈 2]

太陽は狂ってる (1961年、日活

続・兵隊やくざ (1965年、大映

剣鬼 (1965年、大映)

無頼 殺せ (1969年、日活)

極悪坊主 念仏人斬り旅 (1969年、東映

賞金稼ぎ (1969年、東映)


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