真駒内用水
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市街地を流れる用水(2004年10月)

真駒内用水(まこまないようすい)は、北海道札幌市南区を南から北に流れる延長約4キロメートルの水路である。

現在は用水としての役割はなくなっている。2001年(平成13年)、第10回札幌市都市景観賞を受賞[1]
流路

南区真駒内柏丘にある丸亀樋管(まるがめひかん)[注 1]真駒内川右岸から取水し、はじめ暗渠として地下を通る。真駒内川右岸の公園緑地にある竜神塚(りゅうじんつか)[注 2]の裏手で地上に現れ、エドウィン・ダン記念公園に入り、この公園で池(ひょうたん池[6])を作る。そこから真駒内の街中を北へ抜けるが、両岸はが植えられた真駒内緑町緑道となっている[7][8]。緑町公園の先からは道路の中央を流れ、水遊びもできる真駒内曙公園[7]を経て、陸上自衛隊真駒内駐屯地の敷地に入ると北東に向かい、澄川西小学校の近くで精進川左岸に注ぐ。
歴史

1879年(明治12年)に、真駒内牧牛場(後の真駒内種畜場)の家畜の飲料水や農機具の洗浄用、水車の動力用の水を確保するための用水路として、お雇い外国人エドウィン・ダン開拓使に提言して作られた[9]。この用水路は深さ60センチメートル、幅90センチメートル、全長約4キロメートル、水路底は木製の厚板で保護したという[10]

真駒内用水は真駒内川から取水し、最終的に精進川に合流して終点となるが、かつては合流点付近でさらに精進川の対岸から取水する別の用水路が存在していた。この用水路は平岸用水(他に精進川用水堀など複数の呼称がある)で、平岸村に入植した住民によって1873年(明治6年)に開削されたものである。1894年(明治27年)に豊平村の阿部仁太郎が主導して豊平村・平岸村・白石村・上白石村の4村の農家による豊平外三ヵ村聯合用水組合(とよひらほかさんかそんれんごうようすいくみあい)が設立されると、平岸用水を幹線として平岸から白石にかけての広域に水を供給する一大用水路網が築かれ、同地域で稲作が急速に展開することとなった[11]。それにともない真駒内用水は精進川を介して平岸用水へ真駒内川の豊かな水量を供給する要路として改良工事を施され[注 3]、農業用水の安定供給に寄与することとなった[注 4]。しかし、第二次世界大戦後、一帯の市街地化が進展するとともに農業用水の必要性は失われ、1961年(昭和36年)に平岸用水をはじめ四箇村聯合用水路は埋め立てられたが[17]、真駒内用水は残された[18][注 5]。現在は親水施設として整備され[21]、公園や樹林とあわせた景観上の意義だけが残る。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「丸亀樋管(まるがめひかん)」について現地の案内板は、「真駒内用水への取水地点です。もともとは300 m〔メートル〕程下流側にありましたが、明治29年〔1896年〕と平成8年〔1996年〕に移設工事が行われ現在の位置となりました。丸亀と言う名の由来は、聯合用水となっていた時代の第七代組合長 丸亀孝利氏にある様です。」と記している[2]。文中にある1896年(明治29年)の取水地点の移設は、後述の豊平外(とよひらほか)三ヵ村聯合用水組合がおこなった改良工事によるもの。
^ 真駒内川からの取水口近く、用水が地上に現れる地点の南側(真駒内南町1丁目)に、竜神塚(りゅうじんつか)がある[2]。1961年(昭和36年)に精進川以北の四箇村聯合用水路が埋め立てられたあと、保存のため1972年(昭和47年)に個人宅へ移設され、その後ふたたび1990年(平成2年)に現在の地に戻して祀られたものである[3]。起源は用水開削時に真駒内川の蛇行点付近にあった蛇塚とされ、豊平外(とよひらほか)三ヵ村聯合用水組合(後述)によって1915年(大正4年)5月に碑と祠が建立されたという[4]。さらに1930年(昭和5年)には龍頭観音を勧請して石仏を作り真駒内用水大水門龍頭観音白龍大権現と称したと伝え[5]、雨乞いの民俗があったことで知られる[4]
^ 真駒内用水の改良工事について伴野卓磨「平岸の歴史を訪ねて : 開拓編」の記事内容紹介は、「〔豊平外(とよひらほか)三ヵ村聯合用水組合による〕大水路の建設は、(1) 真駒内用水の取入口の改良、(2) 真駒内用水の付け替え、(3) 平岸用水の取水口への水門の設置、(4) 平岸用水の拡幅、(5) 平岸用水を起点とした新たな水路網の構築という手順で進められました。郷土史に残された昔の写真や古地図から、大工事の実像に迫ります。」(第38回)と記す[12]
^ 1912年(明治45年)作成の「豊平・白石・上白石・平岸四箇村(よんかそん)連合用水路設計平面図〈明治45年〉」(『札幌歴史地図〈明治編〉』収載)[13]には、真駒内用水が四箇村聯合用水路の一部として描き込まれている。真駒内用水が聯合用水において果たした役割については、農林水産省ウェブサイトに「『札幌市豊平外四箇村総合用水組合』では、水稲栽培に必要な水を、流量が豊富で安定している真駒内用水路に求めた。ダンが築いた水路の断面を広げ、下流を新たに開削し、それまで数 ha〔ヘクタール〕だった水稲栽培面積は急速に拡大し、水利権上の灌漑面積は391 haとなった。『灌漑用水路による水稲栽培の成功』は、その後の北海道における水稲栽培に、一筋の光を与えた出来事であった。」とある[10]。文中の「総合用水組合」は「聯合(連合)用水組合」の誤植。「豊平外(とよひらほか)四箇村(よんかそん)」として計5箇村となっている点は、『新札幌市史』第4巻(p. 534)が札幌村が加わり全5村の連合となったためと記し[14]、富岡秀義は「〔1906年(明治39年)から役場所管となっていた聯合用水路は〕組合員からの申し出により明治43年に再び組合の管理にもどった。この年〔1910年〕に豊平村と上白石村の一部が札幌区に編入され、大正に入ってから豊平外(とよひらほか)四ヵ村の組合となった。」と記している[11]。また、1916年(大正5年)には四箇村聯合用水の開削を主導し、一帯における水田開発の礎を築いた阿部仁太郎[15]の功労を称える石碑豊平神社に建立された[16]。豊平神社にはその他にも聯合用水路に関する碑が残っている
^ 行政法・環境法研究者の荏原明則による札幌市への聞き取りによれば、真駒内用水のような農業用水路が用途を失ったのちも埋め立てられずに残る事例は珍しく、「上記指針〔札幌市河川環境指針(平成21年3月)〕のパンフレットでは普通河川である真駒内用水が川の散歩道整備の例として挙がっている(次頁参照)[19]。〔札幌市〕担当者の話では, 札幌市の場合も市街化区域内では農業用水として用いられた水路が, 市内の下水道整備に伴い, 杉並区〔東京都〕のように地下の排水路〔暗渠〕に変わったり, 埋め立てられたりした例が少なくないとのことで, 真駒内用水のような例は少ないとのことである。また, 用水路はもともと上流に自然の水源を持たないことが多く, 市街地において水路として維持することの難しさも指摘された。」[20]という。

出典^ “第10回都市景観賞”. 札幌市公式ウェブサイト. 札幌市役所 (2023年2月13日). 2023年4月8日閲覧。
^ a b “「竜神塚」。”. 「歴史のあしあと 札幌の碑」(西部版) (2013年12月1日). 2023年4月8日閲覧。
^ ふるさと探訪会 (2020年2月25日). “竜神塚|碑(いしぶみ)を訪ねて”. 札幌市南区ウェブサイト. 札幌市南区役所. 2023年4月30日閲覧。


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