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出典検索?: "真野響子"
まや きょうこ
真野 響子
本名柴本 苑子(旧姓:真野)
生年月日 (1952-02-09) 1952年2月9日(72歳)
出生地 日本・東京都
身長165 cm
血液型A型
職業女優
ジャンル映画、テレビドラマ、舞台
活動期間1973年 -
配偶者柴俊夫
著名な家族柴本幸(娘)
眞野あずさ(妹)
弟(一般人)
事務所石井光三オフィス
公式サイトプロフィール
主な作品
テレビドラマ
『御宿かわせみ』
『炎立つ』
『ちゅらさん』
『もう一度君に、プロポーズ』
真野 響子(まや きょうこ、1952年[1]2月9日 - )は、日本の女優[2]。戸籍名:柴本 苑子(しばもと そのこ)、旧姓:真野(まの)。夫は柴俊夫、娘は柴本幸。実妹は眞野あずさ。身長164cm[2]。東京都港区西麻布出身[3]。 清泉女学院中学校・高等学校、桐朋学園大学短期大学部演劇科卒業(1973年)[2]。 父親の勤務先が日本航空だったこともあり[3]、1959年から1961年までサンフランシスコで暮らし、中学時代の一時期は北海道で暮らした経験もある。 大学卒業に向けた進路選択では「一生続けられる仕事をしたい」との観点から、スチュワーデスの試験や、ドラマ出演オーディション、劇団民藝の入団オーディションなどを受け、スチュワーデスの内定が出ていたが、それに断りを入れ、1973年に劇団民藝に入団した[2]。 舞台『血の婚礼』でデビュー。桐朋学園の卒業アルバムを繰っていた和田勉の目に留まり1973年、NHK『出会い』でテレビデビューした[2]。なお、苗字の読みを「まや」とした芸名の名付け親は、このデビュー作でNHKディレクターだった和田である[2]。1974年には劇団民藝の『桜の園』でアーニャ役の大役をこなす。東宝『忍ぶ糸』で映画スクリーンデビューを果たすと、その後も数々の作品に出演。 1976年、スコッチウイスキー「カティサーク」のカレンダー出演は、洋酒メーカーの女優起用第1号[4]。「名前で呼んで」というセリフが評判を呼んだ。真野は「『カティサーク』は、女優としての一つのデモンストレーションです。それまでは、男みたいであるとか、さっぱりしているとか、そういう部分での役が多かったので、こういう部分もありますよ、というデモンストレーションになりましたね。私はイロッぽさというよりは大人の女の雰囲気を出してみたかった。でもそれはまあまあ演じられたんじゃないかと思っています」などと述べた[5]。真野自身はお酒を一滴も飲めないため[5]、飲んでいたのはアプリコットジュースだったという[5]。「カティサーク」のCM前後に出た味の素「ハイ・ミー」[5]、マックスファクター「キャメイ石鹸」は、信頼するCMディレクター・大林宣彦が手掛けたもので、真野の起用は大林からの推薦[5]。キャメイ石鹸は子どもの頃から使っていた製品だったという[5]。 1977年8月22日、関西テレビに芸能記者を招き、柴俊夫と交際宣言をやった[3]。互いの関係を隠したがる芸能界にあって前代未聞の会見だったが[3]、当時はまだ写真週刊誌が創刊される前で、二人の写真を撮られたため、スキャンダルを恐れて山像信夫関西テレビプロデューサーから知恵を授かった上での先回りした会見だった[3]。 新人時代からツッパリ女優として知られ[3]、1979年4月にロンドン旅行を終えて帰国した真野に成田空港で待ち構えた梨元勝がインタビューしたがこれを無視[3]。これに触れ、『週刊文春』1979年5月17日号の富士真奈美のインタビューに答え「ああいう低俗で下品なことをされるのって大嫌いなのよね。インタビューや撮影はきちんと電話などで了解を取るべきじゃない?一度無視してみたいと思っていたのが叶えられて、すごく嬉しい」などと話した[3]。同年のTBSドラマ『恋路海岸』では宣伝用のスチール写真に水着姿を要求されたが、誰がどう説得しても応じず[3]。『日刊ゲンダイ』は1979年7月18日付で「さすが大女優候補!?」と報じた[3]。このようにジャーナリズムから嫌われていた背景があり[3]、1978年に三越が製作した映画『燃える秋』に主演したが、ベッドシーンで吹き替えを使ったため[3]、「女優にあるまじき態度」と一斉に非難の声が上がった[3]。
来歴・人物