「真赤な太陽」
美空ひばり の シングル
初出アルバム『歌は我が命?美空ひばり芸能生活20周年記念』
A面真赤な太陽
B面やさしい愛の歌
素敵なランデブー(1992年盤)
リリース1967年5月25日
1992年9月21日(再発売)
規格7インチシングル
ジャンル歌謡曲(リズム歌謡)、グループ・サウンズ
レーベル日本コロムビア
作詞・作曲作詞:吉岡治
作曲:原信夫
美空ひばり シングル 年表
島の夕顔
(1967年)真赤な太陽
(1967年)芸道一代
(1967年)
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「真赤な太陽」(まっかなたいよう)は、1967年(昭和42年)5月25日に発売された、美空ひばりとジャッキー吉川とブルー・コメッツの楽曲。 グループ・サウンズ全盛期であったこの頃、美空ひばりが「ブルー・シャトウ」の大ヒット[注釈 1]を飛ばしたジャッキー吉川とブルー・コメッツ[注釈 2]の5人を従えて歌った楽曲。元は美空ひばり芸能生活20周年記念アルバム『歌は我が命?美空ひばり芸能生活20周年記念』に収録する為に制作された曲で、シングル盤を発売する際にひばりのスタッフの中で評判が高く、ひばりの母・加藤喜美枝もシングル化を推したことから、アルバムからのシングル・カットとして発売されることになったという話が残る[1]。 本楽曲はグループ・サウンズの雰囲気を強調しており、歌番組などでは当時30歳だったひばりが初めてミニスカートを着用し、ゴーゴーダンスを踊りながら歌うなど、それまでのひばりのイメージとは大きく異なる楽曲であり、ひばりの新境地が垣間見えた楽曲であった。 結果的に、「ブルー・シャトウ」の150万枚には及ばなかったものの、140万枚を売り上げるミリオンセラーとなり[2]、記録的な売り上げを残した。これは美空ひばり自身の歴代シングル売り上げ枚数では第4位に相当する[2]。後に多数のシンガー、ミュージシャンにカバーされた曲でもある(後述)。 作曲を手がけた原信夫によれば、「ひばりの母さん(加藤喜美枝)から『お嬢[注釈 3]に曲を書いてよ』と頼まれて、最初は演歌風のものを書こうと思ったが、ありきたり(のメロディー)になっちゃうんで、開き直ってジャズのリズムで作った」とのことで、ひばりは本曲について「これは私の曲じゃないよね」と原に言うと、「ジャズのリズムならお手の物でしょう」と原が返し、それにひばりは笑みを浮かべたという逸話が残る[3]。また当初は原が率いていたビッグバンド「シャープス&フラッツ」が演奏することも考えたが、グループ・サウンズブームだったことに目をつけて、原の脳裏にふと思い浮かんだブルー・コメッツの井上忠夫(のちに井上大輔)にアレンジを依頼し、バックもブルー・コメッツが務めることになったという[3]。 また原は本楽曲が完成した際、ひばりと江利チエミのどちらに歌わせるか迷った末にひばりの楽曲にしたことも後に語っている。本楽曲がヒットした後にチエミは「あれは本当は私の曲よ」と嫉妬したという[4]。 カップリング曲の『やさしい愛の歌』は、やはり『歌は我が命?美空ひばり芸能生活20周年記念』収録曲で、「真赤な太陽」の作曲を手がけた原信夫が自身のビッグバンド「シャープス&フラッツ」と共に演奏に加わっている。
解説
収録曲
オリジナル盤
真赤な太陽
作詞:吉岡治、作曲:原信夫、編曲:井上忠夫
やさしい愛の歌
作詞:西沢爽、作曲・編曲:佐伯亮
1992年盤
真赤な太陽
作詞:吉岡治、作曲:原信夫、編曲:井上忠夫
素適なランデブー
作詞・作曲・編曲:原六朗
カバー
黛ジュン(1967年、4曲入りコンパクト盤『霧のかなたに/恋のハレルヤ/真赤な太陽/恋のサルビア』(東芝音楽工業/CP-4266)用にカバー・バージョンを録音したもののひばり側より発売拒否を受ける。そのバージョンは1994年にCDシングルで発売)
テレサ・テン(1968年、アルバム『ケ麗君之歌第四集 比翼鳥』。中国語版「熱情的月亮」としてカバー)
井上晴美(1991年、シングル『ふりむかないで』のc/wに収録)
東京スカパラダイスオーケストラ(1995年、アルバム『GRAND PRIX』に収録)
長保有紀(1995年、シングル『真赤な太陽』に収録)