真興王
[Wikipedia|▼Menu]

真興王
新羅
24代国王
王朝新羅
在位期間540年 - 576年
姓・諱金彡麦宗
生年534年
没年576年
父葛文王仇珍
只召夫人
王后・王配思道夫人
テンプレートを表示

真興王

各種表記
ハングル:???
漢字:眞興王
発音:チヌンワン
日本語読み:しんこうおう
ローマ字:Jinheung Wang
テンプレートを表示

真興王(しんこうおう、534年 - 576年)は、新羅の第24代の王(在位:540年 - 576年)であり、姓は金、は彡麦宗または深麦夫。『北斉書』には金真興として現れる[1]。父は先代の法興王の弟の立宗葛文王金仇珍、母は法興王の娘の只召夫人。王妃は朴氏の思道夫人。540年7月に先王が死去し、彡麦宗が7歳[2]で王位について、王の母が代わりに政務をみた。成年してからは積極的に領土拡張を進め、新羅の国力を飛躍的に拡張させた。
治世
領土拡張

真興王の治績として特筆されるものは、積極的な対外戦争と領土拡張である。541年より百済との同盟関係(羅済同盟)を保ち、548年高句麗が百済に攻め込んだときには百済を助けたが、550年の高句麗と百済との交戦の時には異斯夫を派遣し、両国間の係争地である道薩城(忠清北道槐山郡)及び金?城(忠清北道鎮川郡)を奪い取った。551年には居?夫(金荒宗)らを派遣して高句麗領に侵入し、竹嶺付近(慶尚北道栄州市から忠清北道丹陽郡)の10郡を奪った。553年には百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城(京畿道広州市)を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置した。このことにより百済との関係は悪化し、554年には百済は聖王伽耶と連合して管山城(忠清北道沃川郡)に攻め入ったが、新羅は逆に聖王を戦死させ、百済と伽耶の連合軍2万9千600を殲滅した。562年には異斯夫と斯多含とを派遣して伽耶を滅ぼし[3]洛東江下流域を制圧した。この伽耶(大伽耶)の滅亡によって、朝鮮半島南東部はすべて新羅の領域となり、文字通りの三国時代となった。

これらの領土拡大については、各地に残る丹陽赤城碑(忠清北道丹陽郡)、昌寧碑(慶尚南道昌寧郡)、磨雲嶺碑(咸鏡南道)、黄草嶺碑(咸鏡南道)、北漢山碑(ソウル特別市)といったいわゆる真興王巡狩碑によっても確認することができる。
地方統治

領土拡張と平行して、前述の新州(京畿道広州市)のほかに下州(慶尚南道昌寧郡[4]、比列忽州(江原道安辺郡)などの州を設けて軍主を配置し、たびたび州の改廃を行った。また、城・村には在地の首長を村主としながらも、中央から道使を派遣して支配を強めていった。これらの地方統治を基として軍団制が整えられることとなり、民生と軍政とが一体化した後の六停の確立へとつながっていった。

557年には高句麗から得た国原城(忠清北道忠州市)を小京[5]と定め、翌年には貴族の子弟や六部の民を移民させてその充実を図った。
中国との交流

頻度こそ高くはないものの、南北朝の両者との交流を保っている。549年にはから使者を受け、564年には北斉朝貢して翌565年2月には<使持節・東夷校尉・楽浪郡公・新羅王>に冊封された。同年9月にはからも使者を受け、566年から571年にかけてはほぼ毎年のように朝貢を行った。盛んに朝貢を行い、また冊封体制下に入ったものの正朔を奉じたわけではなく、先代からの建元に続けて、開国大昌鴻済といった独自の元号を使用し続けた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef