真白き富士の根
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「真白き富士の根」
三角錫子楽曲
ジャンル哀歌鎮魂歌
合唱曲唱歌
流行歌演歌
歌謡曲抒情歌
作詞者三角錫子[注釈 1]
作曲者ジェレマイア・インガルス
(Jeremiah Ingalls)

音楽・音声外部リンク
「真白き富士の根」 - 松原操 (ミス・コロムビア) - YouTube


「真白き富士の根」(ましろきふじのね)は、1910年逗子開成中学校の生徒ら12人を乗せたボート「箱根号」が七里ヶ浜沖で転覆、全員死亡した事件を歌った歌謡曲である。「真白き富士の嶺」[注釈 2]、「七里ヶ浜の哀歌」(しちりがはまのあいか)とも呼ばれる[注釈 3]。逗子開成の系列校である鎌倉女学校の生徒が鎮魂歌として合唱し、世間に知られるようになった。生徒の死が美しく表現されたこの歌により、世間は事件への同情を深めることとなった[1]1915年レコードが発表され、日本全国で歌われた[2]

この歌を演奏することは逗子開成中学校ではタブーとされてきたが、逗子開成創立90周年の1993年にPTAが歌うことを希望して記念式典で合唱され、解禁となった[2]。この時に「PTAコーラス」が発足し、2004年には在校生と卒業生の保護者による女声コーラスグループ「逗子開成コール・レーネ」が発足した[3]
基本データ

成立年:
1910年(明治43年)

作詞者: 三角錫子(みすみ すずこ、1872年生 - 1921年没)作詞当時、系列校である鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の数学教師。東京都目黒区にあるトキワ松学園中学校・高等学校の設立者でもある。

作曲者: ジェレマイア・インガルス(後述

当初三角が発表した題名は「哀悼の歌」[4]。「七里ヶ浜の哀歌」 の方が原題に近いが、一般には、歌い出しの歌詞から 「真白き富士の根(嶺)」 と呼ばれた。

歌詞: 6番まで

拍子: 6/8拍子

歴史

1910年(明治43年)1月23日: ボート転覆事故発生。

1910年2月6日: 逗子開成中学校にて追悼
大法会開催。鎌倉女学校生徒約70名により、鎮魂歌としてこの歌が初演された。オルガン伴奏は三角錫子[注釈 4]

1915年(大正4年): 事故から5年を節目に雑誌『音楽界』159号(1月号)41ページに歌詞が掲載、翌月160号(2月号)巻頭に楽譜付で掲載された[6]

1915年(大正4年)8月: レコードが発売された。

1916年(大正5年)1月23日: 楽譜が音楽社から刊行された[7]。楽譜の題名は『哀歌』といい、三角の「眞白き富士の根」[注釈 5]山本正夫作曲の「母のなげき」が収録された[5]。このころから演歌師によって一般に広められた[8]

1916年(大正5年)6月: 『七里が浜の哀歌』の題名で単行本の楽譜が出版された[7]。世間はこの歌の楽譜を待ち望んでいた[7]

1935年(昭和10年)8月29日: 松竹により映画化。題名は『真白き富士の根』。主題歌は覆面歌手ミス・コロムビア(松原操)が歌唱。

1954年(昭和29年)8月4日: 大映により映画化。題名は『真白き富士の嶺』。主題歌は菊池章子が歌唱。

1962年(昭和37年):逗子信用組合の屋上に「真白き富士の根」のオルゴール時報が流れるスピーカーを設置。1992年(平成4年)まで。

1963年(昭和38年):逗子開成正門入って右側に、折れたオールと「真白き富士の根」1番の歌詞を共にして「ボート遭難の碑」建立。

1964年(昭和39年):稲村ヶ崎公園にボート遭難事故慰霊像建立。これは「真白き富士の根」1番と2番の歌詞を刻んだ犠牲者の兄弟像であり、小学生であった坊やは沈まぬように兄に抱きかかえられている。

1993年(平成5年)4月18日:逗子開成創立90周年式典においてPTAコーラスにより合唱。

歌詞全文

真白き富士の嶺、緑の江の島

仰ぎ見るも、今は涙

歸らぬ十二の雄々しきみたまに

捧げまつる、胸と心


ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)

風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に

力も尽き果て、呼ぶ名は父母

恨みは深し、七里ヶ浜辺


み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて

月も星も、影を潜め

みたまよ何処に迷いておわすか

歸れ早く、母の胸に


みそらにかがやく、朝日のみ光

暗(やみ)に沈む、親の心

黄金(こがね)も宝も、何にし集めん

神よ早く、我も召せよ。


雲間に昇りし、昨日の月影

今は見えぬ、人の姿

悲しさあまりて、寝られぬ枕に

響く波の、音も高し


帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に

我も恋し、失(う)せし人よ

尽きせぬ恨みに、泣くねは共々

今日も明日も、かくてとわに
歌詞について

この歌詞は、当時神奈川師範学校生徒であった福田正夫が文学仲間と書いた詩の寄宿舎自室から奪取された原稿を部分的に改変したものであると福田本人や福田の四女美鈴が主張している[1]

内藤卯三郎愛知学芸大学初代学長)、石野隆(武相学園理事長)、新倉文郎(大和自動車交通創業者)、柳田謙十郎弘前高等学校教授)らと同級生であった福田正夫は、詩歌を愛する文学仲間と雑誌を刊行していた[1]。福田をはじめとする同級生は神奈川師範学校の歴史上かつてない優等生たちであった[9]。ボート転覆事故の頃、福田は雑誌掲載用に清書をした原稿を寄宿舎自室の机に置いていた[1]。ある教師が福田の机から原稿を持ち去り、その数日後には鎌倉女学校生徒が合唱をし、世間に知れ渡るところとなった[1]。合唱されたその歌詞は福田らの詩の数か所が手直しされただけであった[1]。3番までを福田が書き、残りは文学仲間皆で書いたという[1]。すなわち、「真白き富士の根」の歌詞の内容に不可解な点があるのは、事故の詳細が分からないうちに福田らの生徒たちによって書かれた詩だからである[1]。福田らによるものか三角によるものか不明ながら特に1番の転調部分「帰らぬ十二の雄々しきみたまに」のフレーズは無許可出艇をした不良生徒を美化するものである[2]。不良たちはさらに、学校規定の海域である逗子海岸に囲まれた逗子湾を抜け出し、江の島を目指した[注釈 6]。地元漁師が恐れる突風が吹く七里ヶ浜沖を通過する危険な航路である[注釈 7]。江の島からの帰路に漁師が出艇の中止を警告したが、彼らは出艇した[11]

三角の恋仲の生徒が犠牲になったという噂も、三角の再婚相手になるはずであった逗子開成中学校教師石塚巳三郎の息子宮内寒弥が書いた実質的にルポルタージュである平林たい子文学賞受賞小説『七里ヶ浜』(1978年)で否定されている。宮内の小説における推察によれば、父石塚巳三郎が逗子に居住した理由は、逗子を舞台とする徳冨蘆花の小説『不如帰』にかぶれていたからである。三角との縁談について宮内だけでなく哲学者・文芸評論家の柄谷行人も『日本近代文学の起源』(1980年講談社)において言及するが、三角は日本の近代文学と不可分の病である結核を患い、石塚にとっては文学的な結婚になるはずであった[注釈 8]。文芸評論家江藤淳は小学生の頃に鎌倉稲村ヶ崎で療養し、唱歌「真白き富士の根」をその頃からよく知っていたため、長調でありながら哀愁を帯びる優美な旋律が[注釈 9]胸にしみいる思いをしたものであったと毎日新聞の文芸時評で振り返っている[14]。宮内の小説により明かされた複雑な事実は文芸評論の巨匠である江藤をも驚愕させた[14]

福田の四女美鈴は、父が来客と次のように話をするのを聞いた[1]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}寄宿舎の部屋に教師がやってきて、机の上の原稿をみると「やあこれはいいものがあった」って持ってっちまったんだよ。それがあとで歌われだしたんだから、おどろいたよ。

父が死去し、美鈴はそれ以上の詳しい話は分かっていない[1]。福田の長女美弥子が父から聞いた話によると、1番の「捧げまつる、胸と心」は、福田の詩では「捧げまつる、夢と心」であったという[1]。福田の子供が長らく沈黙を守っていたのは、母が「言うな、書くな」と言い、三角錫子に気遣いをしていたからである[1]。三角も自叙伝「涙と汗の記」(1920年、『婦人公論』4月号)においてこの歌に関する言及をしていない。かつて、少女倶楽部の付録の歌詞集では作詞者が福田正夫と掲載され、また別の媒体では日本詩人会の作詞となっていた[1]。またある時は、詩人のサトウハチローが、この詩は福田が書いたものであることは読めばすぐわかるとラジオ番組で発言した[1]。詩人となった福田は自身が作詞した「愛国の花」において冒頭に「真白き富士の」というフレーズを敢えて使用している[1]。松竹映画『真白き富士の根』に女性たちが涙を流した[15]その翌々年の1937年に「愛国の花」は発表されている。ある時から福田が著作権を主張しなくなったのは、母(妻)がなだめたからであったという[1]。つまりそれは、これほど有名になってしまった三角がかわいそうだからであった[1]。四女美鈴としても、この詩が転覆事故の鎮魂歌として歌われない限り世間に広まることはなかったであろうと理解している[1]

原稿を持ち去った教師として推測されている人物は、神奈川師範学校の音楽教師小林錠之助である[1]。その推測は、鎌倉女学校数学教師であった三角が数日で追悼の歌を作らなければならずに苦慮していたため、それを見かねた小林が同僚の山内惇吉が言っていた福田の哀歌を三角に提供したのであろうというものである[1]。三角は逗子開成中学の近くに居住していたため日頃から遭難生徒の何人かを弟のように可愛がり、他校の生徒とはいえ心底辛かった[5]。三角らは、この歌が世間に広まるとは想像しているはずもなく、本来は追悼の1日だけ歌えばそれで終わりのはずであったのである[1]
曲について.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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