真田重蔵
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真田 重蔵
基本情報
国籍 日本
出身地和歌山県和歌山市
生年月日1923年5月27日
没年月日 (1994-05-30) 1994年5月30日(71歳没)
身長
体重173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手三塁手
プロ入り1943年
初出場1943年4月4日
最終出場1956年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


旧制和歌山県立海草中学校

朝日軍
パシフィック
太陽ロビンス
大陽ロビンス
松竹ロビンス
(1943, 1946 - 1951)

大阪タイガース (1952 - 1956)

監督・コーチ歴


明星高等学校

東京オリオンズ (1964 - 1965)

阪急ブレーブス (1966 - 1971)

近鉄バファローズ (1978 - 1981)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1990年
選出方法競技者表彰
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真田 重蔵(さなだ じゅうぞう、1923年5月27日 - 1994年5月30日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手投手内野手)・コーチ解説者評論家1948年から1954年途中までの登録名は真田 重男。

海草中のエースとして、1940年の夏の甲子園大会で優勝1943年朝日軍に入団して13勝を挙げる。戦後の1946年パシフィックに復帰すると25勝を挙げるが、同年に記録した被安打422、失点202、自責点163はいずれも日本プロ野球記録。その後、1948年まで3年連続20勝を記録し、セ・パ両リーグが分立した1950年にはセ・リーグ記録となる39勝を挙げ、松竹のセ・リーグ優勝に貢献する。引退後は、東京阪急近鉄で投手コーチを務めた。1990年野球殿堂入り。
来歴・人物
プロ入りまで

実家は和歌山市内で果物菓子商を営む家庭で、七人兄弟の末子として生まれる[1]。和歌山市立吹上尋常小学校から和歌山高等小学校を経て、1938年に海草中(現:向陽高校)に入学。スポーツに関して天性の才能があり何をやらせても抜群で、尋常小学校5年生の時には、全国小学校相撲大会で優勝したという[2]

海草中では嶋清一の3年後輩に当たる。当初は一塁手や捕手を務めた後[2]、2年生の1939年には夏の甲子園大会三塁手・5番で出場、嶋の伝説的な快投による全国制覇のメンバーとなる。嶋の進学を受けて投手に転向。真田は当初転向を渋っていたが[3]明治大学OBの長谷川信義監督の厳しい指導を受けて嶋の後を継ぐエースとなる。1940年夏の甲子園大会に優勝して海草中の2連覇達成に貢献し、戦前最後の怪腕と呼ばれた。3連覇を目指していた1941年の夏の甲子園大会は文部省の指示で中止となるが、秋の明治神宮中等野球大会では海草中の3連覇をもたらした。なお、1942年に文部省主催の全国中等学校野球大会が開催されるが、この大会では出場規定に満19歳未満という年齢制限が追加されたため、真田は出場することができなかった。同年の秋の明治神宮中等野球大会では4連覇を達成。
プロ野球現役時代


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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