真田幸隆
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 凡例真田 幸綱 / 真田 幸隆
長野県長野市松代町長国寺所蔵
時代戦国時代
生誕永正10年(1513年
死没天正2年5月19日1574年6月8日
改名次郎三郎(幼名)→幸綱→幸隆?→一徳斎(号)
別名通称:源太左衛門、弾正忠
渾名:攻め弾正、鬼弾正
主君海野棟綱長野業政武田信玄
氏族真田氏
父母父:真田頼昌[異説あり]
母:海野棟綱の娘[異説あり]
兄弟綱吉、幸綱、矢沢頼綱常田隆永鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重[1]
妻正室:恭雲院河原隆正の妹)
側室:羽尾幸全の娘
信綱昌輝昌幸信尹金井高勝清鏡?、娘(根津志摩守信忠室)、娘(長坂昌国室)、娘(遠山右馬助室)
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真田 幸綱(さなだ ゆきつな) / 真田 幸隆(さなだ ゆきたか、こうりゅう)は、戦国時代武将信濃の在地領主で、甲斐国戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。

幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され[2]、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている[3]。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている[4]

出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領真田本城(松尾城)(長野県小県郡真田町)を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
生涯

信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族海野棟綱の子[5]、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子[6]として生まれたとされている。幸綱の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸綱以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸綱が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。
上野国へ亡命

甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎天文10年(1541年)に同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻する。同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野国へ亡命している。幸綱が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。

武田信虎は海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承する。晴信はまず天文11年(1542年)に独断で関東管領上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久小県郡侵攻を再開する。
旧領回復時期

幸綱は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。『高白斎記』に拠れば、幸綱は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田氏方に臣従させたという。江戸時代初期の『甲陽軍鑑』に拠れば、天文17年(1548年)の上田原の戦い板垣信方の脇備として参戦している。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は300 - 400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。

近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に、同じ滋野一族禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸綱を推挙したと推測して天文12年説を提唱し[7][注釈 1]、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦上杉氏勢を上野国から駆逐していることから、幸綱の帰属を天文15年としている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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