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時代江戸時代前期 - 中期
生誕明暦3年2月22日(1657年4月5日)
死没享保12年5月27日(1727年7月15日)
改名信房(初名)→幸道
戒名真常院殿全山一提大居士
墓所長野県長野市松代町松代の長国寺
官位従四位下、伊豆守
幕府江戸幕府
主君徳川家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗
藩信濃松代藩主
氏族真田氏
父母父:真田信政、母:松寿院(高橋氏)
兄弟信就、信守、信武、信福、幸道
妻豊姫(伊達宗利の娘)
子源次郎
養子:信弘
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真田 幸道(さなだ ゆきみち)は、信濃松代藩の第3代藩主。 第2代藩主・真田信政の六男(五男とも)。万治元年(1658年)6月14日、父が死去したため、2歳で家督を継ぐ。しかし従兄の沼田藩主・信利がこれに不満を抱いて家督争いが起こった。これは祖父の信之が幸道の後見人となることで鎮めたが、信之も同年のうちに死去したため、内藤忠興が後見人となった。 寛文4年(1664年)1月13日、将軍徳川家綱に御目見する。寛文9年12月25日、従五位下・伊豆守に叙任する。後に従四位下へ昇進する。延宝2年(1674年)6月28日、初めてお国入りする許可を得る。藩主としては領内の検地を行い、幕府から命じられた江戸城普請、朝鮮通信使の饗応役などで活躍している。しかしこれらの相次ぐ出費のために、藩財政が悪化した。 武に優れ、自らは関口流柔術や神道流剣術
生涯
幸道の実子・源次郎は早世していたため、甥(長兄で旗本寄合の信就の七男)の信弘を養嗣子として迎え、跡を継がせた。
後継者から外された長兄の信就と幸道は仲が良かったとされている。 父母 側室 子女
系譜
真田信政(父)
松寿院、高橋氏 ー 側室(母)
遠藤氏
真田源次郎、生母は遠藤氏(側室)
表
話
編
歴
信濃真田氏当主
頼昌 - 幸綱 - 信綱 - 昌幸 - 信之 - 信政 - 幸道 - 信弘 - 信安 - 幸弘 - 幸専 - 幸貫 - 幸教 - 幸民 - 幸正 - 幸治 - 幸長 - 幸俊 -