真田幸政
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 凡例真田 幸政
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕不詳
死没承応2年1月5日1653年2月2日
別名長兵衛(通称)、林伯(戒名
主君徳川家康秀忠家光家綱
氏族真田氏
父母父:真田信尹、母:馬場信春の娘
兄弟幸政、信勝
正室真田昌幸の娘
幸信、幸吉、娘(田中定格室)
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真田 幸政(さなだ ゆきまさ)は、江戸時代前期の旗本真田昌幸の甥で娘婿。真田信之真田信繁とは従兄弟であり、義兄弟でもある。
生涯

真田昌幸の弟・真田信尹を父とする[1]。父と共に徳川家に仕え、慶長5年(1600年)に書院番寛永8年(1631年)に使番に任命される。寛永9年(1632年)に父・信尹が死去し、遺跡を継いで3,000石を知行する。この際、弟・信勝に1,000石を分与する。同年、幼少であるため岡山藩から鳥取藩に移された池田光仲の元に赴き、国目付を務めた。承応元年(1652年)に鉄砲頭となる[2]。承応2年(1653年)に死去した。

正室は伯父の昌幸の娘で、昌幸の娘の中でも末の方に当たるとされている[1]。正室は明暦2年4月28日1656年5月22日)に死去した[1]
脚注^ a b c 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、81頁。 
^ 『新訂寛政重修諸家譜』11


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