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出典検索?: "真田信弘"
凡例真田信弘
時代江戸時代中期
生誕寛文10年12月12日(1671年1月22日)
死没元文元年12月26日(1737年1月26日)
別名蔵人(通称)
戒名乾徳院殿朝散太夫前御史龍嶽一雲大居士
官位従五位下、出羽守、伊豆守、弾正忠
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗
藩信濃松代藩主
氏族真田氏
父母父:真田信就、母:高橋氏
義父:真田信親、真田幸道
妻正室:与伊(静岸院、松平頼純の娘)
側室:藤田氏(冷厳院)、美加(智岸院)
子幸詮、信安、柳生俊峯、繁信(五男)、本多忠盈、娘(柳沢信鴻継室)、娘(一柳末栄継室)
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真田 信弘(さなだ のぶひろ)は、江戸時代中期の大名。信濃国松代藩の第4代藩主。 伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2018年11月) 父母 正室 側室 子女
経歴
1670年(寛文10年) 真田信就(2代藩主真田信政の長男)の七男として生まれる。
1700年(元禄13年) 分家旗本2000石の真田信親の養子となり、寄合に列する。
1703年(元禄16年) 3代藩主真田幸道の長男・源次郎の死去により松代藩養嗣子となる。
1727年(享保12年)7月 幸道の死去により松代藩の家督を相続。
1736年(元文元年)12月27日 藩主在任中に死去(享年67)。長男・幸詮はすでに早世していたため、家督は三男・信安が相続。
官歴
1704年(宝永元年):従五位下出羽守
1727年(享保12年):伊豆守
1730年(享保15年):弾正忠
系譜
真田信就(実父)
小野氏 ー 側室(母)
真田信親(養父)[1]
真田幸道(養父)[2]
与伊、清岸院 ー 松平頼純の娘
藤田氏 ー 冷厳院
美加, 智岸院 ー 前田美和
真田幸詮(長男)生母は冷厳院(側室)
真田信安(三男)生母は冷厳院(側室)
柳生俊峯(四男)生母は冷厳院(側室)
真田繁信
本多忠盈(六男)生母は前田氏(側室)
柳沢信鴻継室、生母は前田氏(側室)
一柳末栄継室、生母は前田氏(側室)
脚注^ 旗本家
^ 松代藩主
関連項目
長国寺 (長野市) : 霊屋がある
乾徳寺 (長野市) : 菩提寺