真理
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この項目では、哲学用語の「真理」(命題が真であること)について記述しています。「真理」の語義については、ウィクショナリーの「真理」の項目をご覧ください。
"Truth". Supreme Court. Sculptor, Walter Allward

真理(しんり、: ?λ?θεια、: veritas、: truth、: verite、: Wahrheit)は、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。真実とも。

西欧哲学において、真理論(英語: truth theory, theory of truth)は論理学認識論においてとりわけ主題化される。真理は、現実事実と異なり、妨害・障害としての虚偽誤謬を対義語としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、あらわであり、その本質が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には本質主義同一性とも関わりが深い。

真理論の歴史は、古代ギリシアに始まる。人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。このような絶対性を内実とする真理概念は独断主義を生み、これに対する防衛・反抗が懐疑主義を生んだ。そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを求めて近代の認識論が始まり、その後、真理の担い手が思惟観念判断命題、「事物」(羅:res、レス)等のいずれであるか、について議論がなされてきた。現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて真理値という。論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。このような形式的な形相についてではなく、質料について真理が語られるときは「実体的真理」という。判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という[1]。現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。

論証する、つまり、言語による表現であることが真理に不可欠であり、哲学的にはロゴスとも関わりが深い。東洋には不言真如という概念もある。

人間を自由にするものとしての真理が説かれることもある。キリスト教では「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8章32節) 」と説かれている。仏教では、人間を苦しみから解放する真理をあらわす「」が説かれる。
西洋哲学における真理論

真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。
真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。アリストテレストマス・アクィナスイマヌエル・カントカール・マルクスバートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインアルフレッド・タルスキカール・ポパー

真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。中期プラトンライプニッツスピノザヘーゲル

真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。ルネ・デカルトエトムント・フッサール

真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。フリードリヒ・ニーチェウィリアム・ジェイムズ

真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。チャールズ・サンダース・パースユルゲン・ハーバーマス

真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。フレーゲ

真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。フランク・ラムゼイ

規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。アンリ・ポアンカレデュエムオットー・ノイラート

歴史
古代
プロタゴラス 人間は万物の尺度である 相対主義

真理の歴史は古代ギリシアに遡る。プロタゴラスは、『真理』と題する書物の中で、「人間は万物の尺度である」とし、ある人には風は温かく感じられ、別の人には冷たく感じられるので、風そのものは温かいのかそれとも冷たいのかという問いには答えがないと述べたと伝えられている[2]。簡単に言えば、判断基準は自分自身という人間である。万物の尺度を科学的で客観性をとる原理や観測ではなく、自分という人間の主観がものさしとなる感想や意見が万物の尺度のひとつであり、絶対的判断基準はなくそれぞれの人間の思いとし、人間には絶対的な共通の認識はないとする。このようにして、まず、真理の相対性が主張された。
プラトン 永遠・普遍の真理プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年

プラトンは、対話篇『テアイテトス』において、登場人物に、プロタゴラスの真理の相対性の主張を批判させている。本対話篇では、「知識とは何か?」という認識論な問いに対し、知識とは常に存在し、疑いなきものであるとの対話者間の共通の前提から、テアイテトスはまず知識とは知覚であると主張する。これに対して、ソクラテスは、知覚は人それぞれによって異なるものであるとした上で、「人間は万物の尺度である」と主張して相対主義を唱えたプロタゴラスを引き合いに出し、彼が自らの思いが真であると固執すれば、自らの思いが偽であると認めざるを得なくなると述べる。

プラトンの真理の相対性に対する反論は自己矛盾というものであるが、引き続き、彼は、『パイドン』において、パルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとの見地から、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもないが、イデアの世界は真実在であるとして世界を二元的に理解し、イデアの世界における真理の絶対性を主張する。そこで前提とされている永遠不滅の真理は、死すべき運命にある仮象の現実の世界に住む者どもに対し、それを超越したイデアの世界における永遠不滅の魂の存在を証明するためのものであった。

プラトンは、引き続き、対話篇『国家』において、仮象の現象界における真理について言及する。彼にとって、真理とは永遠かつ普遍的なものでなければならないが、それは実体であるイデアの世界にしかないものであり、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもない。弁論術による対話において、まず仮説を立て、これから演繹されるもろもろの帰結が相互に整合していれば、それは現象界における真理と認めてもよいが、対話によってその整合性が破られれば、その仮説は廃棄されなければならない。プラトンの著作が対話篇という形をとり、その結末がアポリアを呈示する形で終わっているのは、このようなプラトンの思想を反映したものである。

このように、プラトンは真理は永遠普遍なものとしつつも、それをイデアの世界に限定したため、仮象の現象界における真理は命題間調和を基準とする整合説を主張するにとどまった。彼が創始したアカデメイアでは、弁論術による対話を繰り返し、真理に近づこうと努力したが、皮肉なことに懐疑主義的なアカデメイア派を生み出すことになる。後世に、このアカデメイア派と対立したのが、プラトンの思想を新たな形で復活させたアウグスティヌスだった。
アリストテレス 対応説アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年

アリストテレスは、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンがイデアが個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。


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