真済(しんぜい、延暦19年(800年) - 貞観2年2月25日(860年3月25日))は、平安時代前期の真言宗の僧。父は巡察弾正紀御園
。[1]空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた『性霊集』を編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される。元慶2年(878年)11月11日の真雅言上状[6]によれば、真済の付法弟子は一人もいない。真済の地位からすれば極めて不自然で、文徳天皇の急死に際し激しい批判を浴び隠居したこととの関連が疑われる。なお、真済と師弟関係にあったことが史料に見える者が数名ある。
真然…『日本三代実録』貞観2年2月25日条の真済卒伝に「弟子真然」とある。5巻本『東寺長者補任』(続々群書類従2)に「真雅僧正灌頂、真済受法」とある。
白雲…『続日本後紀』承和4年7月22日条に神護寺に登り入道したことが見える源鎮は、『尊卑文脈』によれば白雲。
峯?…5巻本『東寺長者補任』に「真紹僧都入室、真済僧正弟子、宗叡僧正灌頂資」とある。
恵運…『真言血脈』(続群書類従28下)では真済の付法弟子だが、信憑性に乏しい。
伝説
恵亮との験争い
文徳天皇の第一皇子・惟喬親王と第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)の皇位継承争いにからんで、惟喬側の真済と惟仁側の天台宗恵亮が験力を競い、真済が敗れたため惟仁が皇太子となったというもの。『平家物語』巻八には相撲、『曽我物語』巻一には競馬で争う話が載っている。なお『江談抄』巻二は、同門の真雅が惟仁親王の護持僧で、真済と不仲だったと伝えており、こちらは信憑性がある。
情欲に惑い天狗・鬼と化す
文徳天皇の女御で清和天皇の母である藤原明子 (染殿后)に一目惚れした真済が、死後、紺青色をした鬼、あるいは天狗と化して彼女のもとに現れ悩ませる。そして比叡山無動寺の相応和尚に退治されるという話。延喜18年(918年)?23年の間に書かれたとされる『天台南山無動寺建立和尚伝』をはじめ、『拾遺往生伝