真木花藻
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真木 花藻(まき はなも、? - 永禄12年(1569年))は、三河国宝飯郡16世紀の女性。「華藻」とも書く。両親の姓名は不詳。越後長岡藩牧野氏信濃国小諸藩主牧野氏の上級家臣であった槙氏・真木氏の先祖の一族。

牛久保城に仕えていた女中。夫の死を悲しみ井戸に身を投げて、自害したことで、愛知県豊川市の郷土史に有名な人物である。
概要.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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牛窪記によると[要文献特定詳細情報]、花藻・忍の2人の美しい女中が牛久保城に居たと云うが、牛久保古城であった可能性が高い(詳細は牛久保城を参照のこと)。牛久保城は、愛知県豊川市のJR牛久保駅近くにあった。

花藻は、牛久保城主・牧野出羽守保成の給仕の女中であったが、真木又次郎と恋に落ちて、牛久保城下の観音堂の縁日に人混みに紛れて、2人で出奔・駆け落ちをした。この観音堂の観世音菩薩は、奈良県桜井市の古刹・真言宗豊山派総本山長谷寺・本尊の観世音菩薩と同木で作られたもので、真木宗成が、三河・牛久保に持ち帰ったものである。御利益が高いとされ、かつて牧野家の守本尊の一つであったとされる。この観音堂は、現存していないが、仏像は、豊川市の長谷寺にいまも安置されている。手の部分が壊れて、原型を充分にとどめない形で、修復がなされているため、文化財的な価値は高くない。

永禄6年(1563年)3月・牧野出羽守保成は、駿府の戦国大名今川氏のため、徳川家康と合戦に及び敗れて切腹した(異に討ち死にしたとあり)。真木又次郎と、花藻の帰参の子細は、明らかでないが、牛久保城主は、今川派の牧野出羽守保成から、徳川派の牧野成定康成に交代していた。真木又次郎は、永禄12年(1569年)11月に、遠江国浜名郡に、一向一揆鎮圧のために山本帯刀等と共に、出陣したが籠所の兵に、不意に襲われて深手を負った。親友の岩瀬林之助に介助されて、辛うじて帰陣したが、まもなく戦傷死した。花藻は、これを見て、井戸に投身自殺を図った。牛窪密談記は、このときの花藻の様子を「狂人のようになりて」と、著述している。この恋愛物語は、牛窪記に詳述されている。

花藻が自害した井戸は、長く古井戸と呼ばれて、江戸時代には、小字(コアザ)として、地名となっていた。古井戸の所在は、現在の豊川市金屋橋町北部であり、その井戸そのものは、豊川市役所の西側にあったと云う。2人の墓地は、三河国宝飯郡誌や、牛窪記には、一本松にあったとされるが、愛知県営牛久保住宅の造成のため、改葬された(以上、真木氏末裔及び、地元古老からの聞き取り[信頼性要検証]、喜多むめ所蔵文書[要文献特定詳細情報])。

真木又次郎・花藻そして、岩瀬林之助・忍(林之助が妻)の四柱を祀った施設として、能仁堂がある。
参考文献

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加藤誠一『小諸藩』[要文献特定詳細情報]

加藤誠一『牧野家臣団』[要文献特定詳細情報]

関連項目

三河真木氏

真木氏 (牧野家重臣)

小諸藩家老真木氏


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