真木ひでと
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真木 ひでと
出生名野内 正行
別名野口 ヒデト、野口 ひでと
生誕 (1950-11-27)
1950年11月27日(73歳)[1][2]
出身地 日本福岡県田川市[2]
ジャンル歌謡曲
職業歌手
活動期間1967年(漫画トリオとバックボーン)
1968年 - 1971年オックスとして)
1971年 - 1974年(野口ひでととして)
1975年 -真木ひでと
レーベルヒデトレーベル
事務所オフィスヒデト
公式サイトhttps://hidetomaki.web.fc2.com/ 

真木 ひでと(まき ひでと、1950年11月27日 [2]- )は、日本歌手。本名は野内 正行(のうち まさゆき)。GSバンド、「オックス」のヴォーカルを務めた後、演歌を中心とした歌手として活動。福岡県田川市出身[2]
来歴

1967年、「漫画トリオとバックボーン」(木村幸弘とバックボーン)に参加し、プロとしてのキャリアをスタート。また、木村の「ロックを歌え」という指示で、ビートルズの「のっぽのサリー[3]をその年の6月から唄い、やがてローリング・ストーンズ[4]の「アウト・オブ・タイム」や「テル・ミー」を唄うようになり(ペンギン堂の店長からライブ盤のストーンズのLPを勧められたことが後の野口ヒデトのステージパフォーマンスに多大な影響を与える)、少しずつ関西での野口ヒデトの名前が知られるようになった。その激しいステージングが評判となり、バンド「バックボーン」の出演時は動員力もアップした。

ジャズ喫茶「ナンバ一番」で「テル・ミー」のパフォーマンスを見た、GSバンド・オックスのリーダー福井利男より「日本でビンソンのエコーチェンバーを持ってるのはうちのバンドとスパイダースだけ!」と口説かれ、1968年 1月よりバンドに参加するも当時の野口はビンソンが何なのかわかっていなかったという[5]1968年5月に「オックス」のヴォーカルとしてデビュー[2]芸名野口英世にあやかって野口ヒデトと名乗る[5]。「ガール・フレンド」「ダンシングセブンティーン」「スワンの涙」「僕は燃えてる」といったTOP10、TOP20ヒットを出した。「ガールフレンド」「スワンの涙」と、もう2曲は筒美京平の作曲だった。デビュー当初は赤松愛の人気が先行したが、2枚目のシングル「ダンシング・セブンティーン」を発売する頃には、人気投票では圧倒的に愛を引き離し、人気の中心は野口ヒデトに移った。オックスはGSブームの1968年以後ヒット曲を飛ばし、野口ヒデトは沢田研二[注 1]萩原健一[注 2]渡辺茂樹[注 3]とともに、若い女性ファンの間で人気となった[6]。GSブーム中期?後期には、沢田研二・萩原健一・野口ヒデトの3人の対談も、雑誌等で数多く見られるようになった。

9月より全国6ヵ所での公演が始まり、初日の日比谷公会堂を始め各会場のステージで失神騒ぎを起こしたことから、マスコミは過剰なまでに彼らを「失神バンド」と書きたてた。オックスはザ・タイガースザ・テンプターズと並び“ GS御三家 ”と称された[1]

1971年5月31日にオックス解散[7]。同年「仮面」でソロデビュー。以降は「他になにがある」「夜空の笛」等のシングルを発表し、本人自作の「笑いを忘れたピエロ」が収録されているアルバム「ひでとからあなたに」をリリースする[2]

1975年YTV全日本歌謡選手権」に引退を覚悟して挑戦、10週を勝ち抜いた[8]。恩師山口洋子の命名により「真木ひでと」に改名し[注 4]、「夢よもういちど」で演歌歌手として再デビューした[1]。このデビュー曲がソロ歌手として初の大ヒットとなり再ブレイクしオリコン全国チャート9位にランクイン各種優秀新人賞などを受賞した[1]。また、9月発売にもかかわらずオリコン年間ベスト100にも入っており、同年末の第17回日本レコード大賞ノミネート候補曲の中に選ばれる[2]。この頃のファン層はGS時代をリアルタイムで見られなかった中・高校生が多く真木自身も一過性のブームで終わるのではと危惧していたという。

1976年、「恋におぼれて」で東京新聞最優秀ヒット賞を受賞[1]。ひでとの歌はじっくりと売れる歌が多いのが特徴。

同年3枚目のシングル「東京のどこかに」では飯塚音楽祭で大衆賞・銀賞等を受賞[1]。この時のゲストが美空ひばりであり、ひばりから「あんた知ってるよ」と言われた事でますますひばりファンになったと言う[10]

この時期に、ジャズピアニストの世良譲[11]から、ひでとは演歌よりもジャズに向いてる、指導するからジャズシンガーになれと会う度に言われたという。また、戦前から活動した演歌の作詞家藤田まさとからは、いつか真木ひでとの股旅ものを書くからと言われていたが、どちらも両人の死去により、実現することはなかった。藤田はオックスの頃に、番組でひでとが歌った「流転」で認識が一変し、再デビュー後も親代わりとして、フジテレビのラブラブショーにもゲストで出演した。

1978年柳ジョージ&レイニーウッドとの共演で、レコード会社の枠を越えて7枚目のシングル「カモン」をリリースした。演歌ではなく、ロック調の歌である。ロック歌手に変貌させられそうになったため、真木の猛反対で演歌路線に戻った。

この頃、国際劇場で開催された「ニューイヤー・ロック・フェス」に出演した(近田春夫が司会。フェスのプロデュースは内田裕也。出番はダウン・タウン・ブギウギ・バンドとレイニーウッドの間で、真木はロッド・スチュアートの曲も歌った)。演歌歌手としては真木だけが出演しているが、これは内田裕也が真木に直々に声をかけたことで実現したものである。

1979年、8枚目のシングル「雨の東京」をリリース。「雨の東京」はカラオケ・有線で流れ、1年半以上も売れ続けロングセラー賞を受賞。その後「幸せうすい女です」「ほたる川」をリリースした。

千昌夫からは、「何でキャンペーンをやめるんだ この歌は頑張れば100万枚はいくぞ」と言われたことが嬉しかったという。「雨の東京」のロング・セラーで、NHK紅白歌合戦は当確と予想され、本人も出場できると確信していた。しかし、当時のレコード会社のNHK担当者のミスで、NHKの怒りを買い出場が出来ず、次点にとどまったとも言われている[12]。この頃は、地方コンサートを数多くこなし、東京でのコンサートはまったくなかったが、「雨の東京」のヒットで、1980年9月25日ヤクルトホールにて真木ひでとファーストコンサートが開催された。

1988年、森本太郎に声をかけられタイガース・メモリアル・クラブバンドに参加。8年間、ソロとGSシンガーを両立させた。(大阪城ホール・横浜アリーナのコンサートで立ち上げたGS最大のユニットである)

平成に入り「子供の頃からエースで4番」の歌詞で始まる歌「元気の星」が「雨の東京」以来のヒット曲になり、今も読売ジャイアンツ2軍の試合で演奏されている。


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