真弓明信
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真求B明信阪神タイガース監督時代
(2011年3月9日、阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地福岡県大牟田市(出生地は熊本県玉名郡南関町
生年月日 (1953-07-12) 1953年7月12日(70歳)
身長
体重174[1] cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手遊撃手二塁手
プロ入り1972年 ドラフト3位
初出場1973年5月5日
最終出場1995年10月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


柳川商業高等学校

電電九州

西鉄ライオンズ
太平洋クラブライオンズ
クラウンライターライオンズ
西武ライオンズ
(1973 - 1978)[注 1]

阪神タイガース (1979 - 1995)

監督・コーチ歴


大阪近鉄バファローズ (2000 - 2004)

阪神タイガース (2009 - 2011)

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真求B明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )は、福岡県大牟田市出身(熊本県玉名郡南関町生まれ)の元プロ野球選手外野手内野手)、野球解説者野球評論家タレント。2009年から2011年まで阪神タイガース第31代監督を務めた。
経歴
プロ入り前

熊本県玉名郡南関町生まれだが、小学3年生の時に福岡県大牟田市へ転居。小学6年生の時に、同じ社宅に暮らす原貢(後に読売ジャイアンツに入団する原辰徳の父)が監督を務める三池工業高校夏の甲子園で優勝し、その優勝パレードに感動したことがきっかけで野球選手を志すようになった。

歴木中学校進学後に本格的に野球を始めるが、野球部以外の運動部も掛け持ちで参加していた。特に、陸上部では三段跳で11 m 99 cmを記録し、大会で2位に入賞したことがある。

柳川商業高校では若菜嘉晴と同期だった。若菜は、中学校時代に地元のライバル校だった羽犬塚中学校に在籍しており、地区大会の準決勝で対戦したこともあった。高校では1年次からベンチ入りし、2年次からは遊撃手三塁手としてレギュラーを獲得。チーム自体は「九州一の強豪」という評価を受け、1970年春季九州大会では福岡県予選南部決勝まで進むが、大濠高に敗退。その後も県予選で敗れ、在学中に甲子園に出場することはなかった[2]

若菜は高卒で地元の福岡に本拠地を置く西鉄ライオンズに入団し、真弓は社会人野球の電電九州に進んだ。電電九州では、正遊撃手およびその控え選手の故障で、1年目から遊撃手のスタメンを得ることとなり、第43回都市対抗野球大会でベスト8となり日本産業対抗野球大会にも出場した。それらの活躍もあり、1972年のドラフト会議西日本鉄道から球団を引き継いだ太平洋クラブライオンズに3位指名されプロ入りし、1年前に入団した若菜と再び同僚になった。背番号は2。担当スカウトは武末悉昌[3][4]
太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ時代

1973年5月5日の対日拓ホームフライヤーズ戦(平和台野球場)で、9回表に遊撃手の守備固めとしてプロ初出場。守備機会はなかった。5月15日の対阪急ブレーブス戦でも9回裏から遊撃手の守備固めとして出場するも、2つのエラー(記録上は、1つは内野安打)を喫し、翌日二軍落ちする[5]。同年7月よりおよそ3か月間、アメリカの1A・ローダイ・ライオンズに留学する。このアメリカ留学で、当時日本ではそれほど行われていなかったウエイトトレーニングを練習に加えるようになった[6]

1974年から背番号が42に変更される。本人は、スポーツ新聞の記事でこのことを知った。同年は、23試合に出場しプロ初安打を放った[7]

1975年に当時の監督江藤愼一から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。同年にはプロ初本塁打・初打点を挙げている。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と球団に抗議して残留となった。

1977年に、福本豊の使うタイプのバット(いわゆるタイ・カッブ式)を使用するようになる[7]。同年は主に中堅手として70試合に先発出場を果たす。同年のシーズン後に結婚。後に、3人の娘を授かっている。

1978年には、5月から一番打者、遊撃手に定着、初の規定打席(リーグ18位、打率.280)に到達する。同年は、オールスターゲームに初選出され、遊撃手のベストナインにも選ばれた[7]
阪神タイガース時代

1978年オフに田淵幸一古沢憲司との「世紀のトレード」で若菜、竹之内雅史竹田和史とともに阪神に移籍することになる(実際には田淵と真弓、若菜、竹田との1対3のトレード、古沢と竹之内の1対1との2つのトレードがまとまった形となって、真弓もそのように語っていた)。本人は球団が国土計画に売却され、本拠地が福岡県から埼玉県所沢市に移ることから引っ越しの準備中だった。当初、阪神へのトレードは真弓ではなく永射保で話が進んでおり、真弓は西武へ行く若手選手を集めた秋季練習にも参加していたが、阪神の新監督に就任したドン・ブレイザーが機動力のある野手を望んだため、永射ではなく真弓になったという[8]。トレードはテレビのインタビューで初めて知り、「セ・リーグだったら名前も売れるだろうな」と思ったという[9]。後に球団から正式にトレードを通告された時は、思わず「ありがとうございます」と言ってしまった程嬉しかったと後年振り返っている[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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