真崎 義博(まさき よしひろ、1947年9月23日-)は、日本の翻訳家。 1960年代後半、明治大学文学部英米文学科[1]在学中に「ボロディラン」の名でシンガーソングライターとして活動。1972年から翻訳家として活躍。 東京都生まれ。1960年代、中学生の頃からジャズ喫茶に入り浸り、ジョン・コルトレーンを知る。 明治大学在学中、カレッジフォーク全盛の東京で、高田渡、遠藤賢司、南正人、金子章平(後に音楽プロデューサーとして活躍)らと東京で「アゴラ」という日本語のフォーク・ソングのチームに参加[2]。1968年8月に京都で行われた第3回フォークキャンプに「ボロディラン」の変名で出演した。単独で「いやなおまえ」、「カラス」、金延幸子と「アリス」を歌い、その音源がレコード化、CD化されている[3]。この頃、中山ラビと出会っているとされる[4]。 大学卒業後、1972年の「未開社会における性と抑圧」(B・マリノウスキー著、社会思想社)を皮切りに、同年「呪術ドン・ファンの教え」(カルロス・カスタネダ著、二見書房)を翻訳。音楽評論家のポール・ウィリアムズ「ニューヨーク・ブルース」(音楽之友社、1975年)なども翻訳した。 1978年から、ジョー・エスターハズの「フィスト」を手始めに、海外ミステリー作品の翻訳を手がけるようになった。訳書には、ウィリアム・L・デアンドリア 現在は、翻訳専門学校でゼミの指導者としても活躍している[5]。
人物
経歴
エピソード
学生時代から、ボブ・ディランの楽曲の訳詞も手がけていた。中山容が1番を訳し、その後、真崎とエブロ=メロンが書き足し、真崎が歌ったボブ・ディランの「プレイボーイ、プレイガール」は、新宿フォークゲリラ
ボブ・ディラン楽曲の歌詞の翻訳家で詩人、関西フォークの仕掛人といわれる中山容らがつくった京都の喫茶店「ほんやら洞」開店当時の1972年頃、中尾ハジメと京都市内で共同生活を送り、片桐ユズルらと交流していた[9]。
1997年3月30日、高田渡と中山ラビが呼びかけた中山容を「偲ぶ会」に参席した。会には「アゴラ」時代の仲間である遠藤賢司も顔を見せ、演奏を披露した[10]。
翻訳
『未開社会における性と抑圧』(マリノウスキー、阿部年晴共訳、社会思想社) 1972
『ニューヨーク・ブルース』(ポール・ウィリアムズ、音楽之友社) 1975
『河の旅、森の生活』(レイモンド・マンゴー、片岡義男共訳、角川文庫) 1977
『フィスト』(ジョー・エスターハス、サンリオ) 1978
『殺しのあとで愛を』(スーザン・アイザックス、サンリオ) 1979
『紺碧の嘆き』(ジョン・D・マクドナルド、早川書房、世界ミステリシリーズ) 1979
『死の統計』(トマス・チャスティン、サンリオ) 1979年、のちサンリオ文庫、ハヤカワ文庫
『ディアハンター』(E・M・コーダー、サンリオ) 1979年
『死はつぐないを求める』(ジョゼフ・ハンセン、早川書房、世界ミステリシリーズ) 1980
『マグダラの古文書』(バーバラ・ウッド、サンリオ) 1980
『あるチョッパーの死 イージーライダーズ傑作選』(イージーライダーズ誌編、小林宏明共訳、二見書房、サラ・ブックス) 1981