真岡郵便電信局事件
[Wikipedia|▼Menu]
九人の乙女の像
本事件で自決した9名の慰霊のために建てられた。

真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)とは、太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。真岡郵便局事件、また沖縄ひめゆり学徒隊と対比して北のひめゆり(事件)[1]とも呼ばれる。

自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵の手榴弾や銃撃による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる[2]
背景

太平洋戦争末期、北方はアッツ島から太平洋の島々・沖縄まで日本軍の玉砕が相次ぎ、民間人も多くの者がサイパンテニアンから沖縄戦まで軍と運命をともにしていった。とくに戦時において国の重要なインフラとなる通信(電信電話)を担う職員には、最期まで職責を果たすべくかのように「死んでもブレスト(現代のヘッドセットにあたる機器)を外すな」といったことが教えられていた。これは決して口先だけの決まり言葉で済まずに、かつて日本の電報・電話を担当した元電電公社の職員で後に大学講師・作家となった筒井健二によると、実際に、例えばB29機本土空襲の焼夷弾爆撃によって焼き払われた町では、文字通り職場に最期まで留まって殉職した者もいたという[3][注 1]

筒井健二は、その中で碑文が建てられたのが、一つは、1945年3月9日の東京大空襲で隅田電話局で主事以下の男性職員3名と女性交換手28名が、熱の辛さをわずかでも和らげようとしたのか相擁して焼け死んだ事件(隅田電話局に吉川英治の文による碑があるという)と、もう一つが、この真岡郵便電信局事件であるという[3]
事件の経緯

1962年頃から地元新聞社の北海タイムスの取材で事件の関係者証言が報じられ、それをきっかけに起こった1963年の地元有志の慰霊碑建設運動とその結果としての慰霊碑建設によって全国にも知られるようになった[4]。さらに、長らく沈黙を守っていた事件当時の郵便電信局の元局長が事件の責任が様々に取り沙汰されることもあり、1965年、元局長は当時存在した地元新聞社「北海タイムス」の記者の依頼で自身の手記を書き、同紙の集中連載『樺太終戦ものがたり』ではその内容を元に報じられ、さらに元局長は手記を『逓信文化』(株式会社逓信文化社発行)1965年4月号にも発表、広く顛末が公に知れ渡ることになったという[5]。1972年出版の『樺太一九四五年夏』はこれら当時の北海タイムスの一連の記事をまとめたもの[6]で、その結果、以下の事件の経緯の多くは、元局長の主張が元となっている。

一方、ノンフィクション作家の川嶋康男は、この事件が美談として取り上げられることに違和感を持ち、とくに女性らが血書をしたためてまで電信局に残ることを希望したという点に疑問を感じて当時の関係者への取材を続け、その結果をたびたび著作として刊行している。

1945年8月9日にソ連が対日参戦し、8月11日から樺太にもソ連軍の侵攻が始まった。8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決め、8月15日に玉音放送で国民にも詔勅が公示されたが、北海道の第5方面軍が樺太の第88師団に樺太死守の命令を出し[7]、その結果、南樺太では日本軍が停戦交渉中やむをえない場合の自衛戦闘が認められていたことを根拠に、ソ連軍との戦闘を続けることになった。

1945年8月10日、樺太庁鉄道局船舶運営会・陸海軍等関係連絡会議で、樺太島民の緊急疎開要綱が作成され老幼婦女子、病人、不具者の優先的輸送計画が決定された。

8月12日、札幌に樺太庁北海道事務所が設置され、翌13日、大泊港から第1船(宗谷丸606名)が出帆した。一方、真岡町を含む西海岸方面の疎開者は15日、真岡港から海防艦、貨物船「能登呂丸」、漁船等で出港するなど、島民の北海道への緊急疎開が開始された。

8月16日、真岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に対する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して引き揚げさせることにした。電話交換業務は女子職員の手により成り立っており、引き揚げ後の通信確保のため真岡中学の1?2年生50人を急ぎ養成することで手筈が決められた[8]。また、むしろ逆に真岡中学の高学年生が担当することで、校長と局長の間で了解が出来ていたという証言も複数ある[9]。しかし、いずれの証言でも、責任感から残留して業務を続けることを主張する電話交換手が多かったことも事実だったという[9]

一方、16日に真岡郵便局の朝礼で主事補の鈴木かずえにより残留交換手に関する説明がなされた。主事補は緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出ている現状を話し、仮にソ連軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる者は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた[8]

鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現した。これに対し鈴木は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示。後日希望を聞くと告げた[8]

8月17日、電話担当主事が「全員疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と、局長に報告したため、局長はソ連軍進駐後生ずるであろう事態を説くとともに説得にかかったが、応じてもらえなかった。ただし、川嶋康男の取材調査によれば、当日現場にいなかった者を含めて生き残りの交換手は誰も血書嘆願等といった行為はないとし、高石班とは別の班の責任者であった上野はそのような事実はないとしている[10]。最終的には、局長が豊原逓信局業務課長との相談で、逓信省海底電線敷設船(小笠原丸)を真岡に回航させ西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に当たらせる了承を得たので、同船が入港したら命令で乗船させることとし、20人だけ交換手を残すことになった。しかしこの計画は予想以上に早いソ連軍の上陸で日の目を見なかった[11]

先に引き揚げた交換手は、疎開命令が出た後もみな「(通信という)大事な仕事なのでもう少しがんばる」と言い張ったが、局長からは「命令だから」と戒められた[12]。そして公衆電話から電話交換室に別れの電話をかけると、「頑張ってね」「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ連絡してすぐ局へつとめるのよ」と残留する交換手たちからかわるがわる励ましの言葉をかけられた[13]

なお、作家の川嶋康男は著書で、局長から残留要員選定を命じられたとする斎藤春子の証言があるとしている[14][8]。が、後述のように時期が版により変わっていたり、最低必要人員だとする人数を切っても何人もあっさり引き揚げが認められていたりと、作品の記述では読者の疑問が解消するだけの説明がなされていないように感じ、その点を不審に思う者もいるようである。川嶋によると斎藤は「昭和20年のある日」[注 2]、上田局長に最低でも24、5名の残留要員を選考するように命じられたという。

だが、その後残留交換手を募る目立った動きはなく、斎藤は立ち消えになったのかと思ったという。なお、斎藤は同時に残留組が24、5名となった後にも引き揚げの申し出を受けて自分が二人を残留組から外したとも証言しているという。また、そこからさらに斎藤自身が残留組から外れることとなる。斎藤は妹・美枝子とともに残留組に志願していたのだが、母親は上田局長に、娘二人を預けたままでは引き揚げられない、一人は連れて還りますと電話をかけた。

18日に上田局長に呼び出された斎藤は電話の旨を知らされ、「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人引揚げるようにしてください」と告げられたという。斎藤姉妹は互いに自分が残ると押し問答を繰り返したのち、姉である斎藤が諦め、引き揚げることとなった[8]

また、川嶋は希望者がいない場合は責任番号順(交換手の経験年数によって付けられる番号順)に残るよう主事補から聞かされたとする証言(葛西節子)もあるとしているが、これが事実であれば、結局、最終的に決まった結果とは乖離が大きくなっている。岩間信子の証言によれば、いざ決めるとなると、年嵩の者は結婚して子どもがいたり家に年寄りを抱えていたりということで、ともに内地に帰り残留を避けることになったという[15](樺太庁では、年寄りと年少の者を優先的に内地に返すことにしていた。)。最終的に決定した残留交換手20名は比較的経験年数の少ない10代の交換手が多くを占めていた。20名中10代が全部で何人だったかは不明だが、8月20日当時の高石班11人中6名が10代であり、上野班にも少なくとも1名10代の女子交換手(藤本照子・当時17歳)がいた。

また、前述の斎藤春子は昭和8年入局の古参交換手であるが、前述の通り残留交換手が24、5名からさらに絞られた後に引き揚げ組に加わっている[8]

8月19日朝、非常体制が敷かれる。電話電信業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務体制となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef