真岡郡(まおかぐん)は、日本の領有下において樺太に存在した郡。
以下の2町4村を含む。 1915年(大正4年)に行政区画として発足した当時の郡域は、真岡町、広地村、蘭泊村、羽母舞村、清水村の1町4村の区域に相当する。 郡域内の遺跡から縄文土器が出土。特に真岡町大字真岡字真岡にある真岡遺跡からは、縄文時代後期の船泊上層式土器の影響を受けた地元産の土器が出土している[1]。遺跡の位置は、真岡町南部とされる。 樺太南部では、続縄文文化に属するアニワ文化(遠淵式)が古墳時代前期まで栄えた。 その後樺太で興り4世紀末まで続いた鈴谷文化を経て、5世紀ころからオホーツク文化が栄えた。オホーツク文化は、『日本書紀』や『続日本紀』に見える粛慎(みしわせ)に比定され、飛鳥時代に続縄文文化人の要請を受け進軍した阿倍比羅夫と交戦している。その後、擦文文化進出にともない、オホーツク人は樺太南部から駆逐された。 平安時代中期(10世紀)までに、擦文文化人が真岡郡域にも進出。武士の台頭にともない、矢羽や甲冑などの材料として需要の増したオオワシ羽やアザラシ皮などの確保が目的とみられ、これらは和人社会・本州方面への重要な交易品となっていた。奥羽の豪族・安倍氏や奥州藤原氏などは北の産品の流通に携わり、莫大な富を手にすることとなる。また、同時に和人社会から和産物も流入し、擦文文化からアイヌ文化への転換が進んだとみられる。続縄文文化や擦文文化の担い手は、先史時代の縄文文化の担い手の子孫であり、アイヌの祖先に相当する。 鎌倉時代以降、蝦夷管領・安東氏が、「俘囚の上頭」として東夷成敗を実行するかたちで、北海道日本海側や北海岸および樺太南部に居住していた唐子と呼ばれる蝦夷(アイヌ)を統括していた(『諏訪大明神絵詞』)[2]。中世の安東氏は十三湊を拠点とし、奥州藤原氏を引き継いで日本海北部を中心にかなり広範囲にわたって活動していたという(『廻船式目』)。また、陸の豪族であるとともに安藤水軍と呼ばれる武装船団を擁し、蝦夷社会で騒乱が起こるとこれを鎮めるため、安東氏は津軽から出兵したという[3]。室町期の応永年間になると安東氏は「北海の夷狄動乱」を平定し、日之本将軍と称した。 室町時代になり、安藤水軍は関東御免船として活動。和産物を蝦夷社会へ供給し、北方産品を大量に仕入れ全国に出荷していたという(『十三往来』)[4][5][6][7]。また、唐子蝦夷も生活必需品などを入手するため、地元産品をともない十三湊や後の和人地に相当する渡党の領域まで出向いており(城下交易も参照)、15世紀になると、安東氏の代官武田信広(松前氏の祖)のもとを訪れ銅雀台瓦硯を献上し配下となる(『福山秘府』)[8]。これ以降、彼は大陸への交易路を押えることとなった。 江戸時代になると、西蝦夷地に属し慶長8年(1603年)樺太は宗谷に置かれた役宅が司った。貞享2年(1685年)宗谷場所に含まれ、宗谷では撫育政策としてオムシャなども行われた。元禄13年(1700年)、松前藩から幕府に提出された松前島郷帳
真岡町
野田町
広地村
蘭泊村
清水村
小能登呂村
郡域
歴史
郡発足までの沿革
先史時代
古代
中世
近世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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