この項目では、樺太にあった町について説明しています。かつて栃木県芳賀郡にあった真岡町については「真岡市」をご覧ください。
まおかちょう
真岡町
真岡の街並み
廃止日1949年6月1日
廃止理由国家行政組織法施行
廃止時点のデータ
国 日本
地方樺太地方
都道府県樺太庁 真岡支庁
郡真岡郡
面積109.210[1] km2.
総人口28,521人
(2016年12月1日)
隣接自治体真岡郡広地村、蘭泊村、清水村
真岡町役場
所在地樺太庁真岡郡真岡町本町一丁目
特記事項1943年4月1日以降は北海地方に所属。
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真岡町(まおかちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。
真岡という地名は、アイヌ語の「マオカ」(静かな場所)、「マ・オカ」(川口が入江になっている海岸)による[2]。
現在はロシア連邦がサハリン州ホルムスクとして実効支配している。 恵須取町と並ぶ樺太西海岸の中心都市であった。大規模な港湾施設が存在し、日本最北の不凍港とも呼ばれていた。暖流である対馬海流の影響により、比較的温暖な気候であった。 1919年に樺太工業による製紙工場ができたことから、樺太屈指の製紙業の街となった。工場は、市街地南部の93,000坪の敷地に建設され、必要な水資源は樺太庁が手井川ダムを建設し、貯水池から工業用水として取水した。これらの水は、民生用にも振り分けられたことから市民の生活環境も向上した。鉄道も、1919年に真岡駅-本斗駅間、1920年に真岡駅-野田駅間が開通し、パルプの原料材の輸送に寄与した。短期間にインフラが充実したこともあり、1921年5月、タバコの不始末から工場が全焼した際にも、すぐさま再建が始まり、翌年には生産が再開された。樺太産業は、1933年に王子製紙と合併したが、工場自体は終戦まで稼働が続いた[3]。2000年代においても、市街地の郊外に工場の廃墟が現存している。真岡港の様子 1945年8月20日、ソ連軍が艦砲射撃を行って侵攻した時に、真岡郵便局電話交換手の女性12名のうち9名が自殺(自決)し、3名が生還した真岡郵便電信局事件でも有名である。北海道稚内市の稚内公園にある「九人の乙女の像」はこの事件の犠牲者九人を慰霊するものである。ソ連軍の真岡侵攻に際しては、隣接する真岡郡清水村瑞穂において瑞穂事件が起きた。 樺太からの引揚船は真岡港から出港し、北方領土を含むソ連占領地域の住民28万人余りがここから日本(内地)へ向かった。
概要
ソビエト連邦による占領
歴史
1908年(明治41年) - 内務省告示により、真岡の読みを「まうか」から「まをか」に改称。
1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により行政区画として発足。