真山一郎
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真山 一郎(まやま いちろう)は、浪曲名跡。当代は2代目。
初代

初代 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}真山(まやま) 一郎(いちろう)
出生名西本(にしもと) 恭男(やすお)
生誕 (1929-06-03)
1929年6月3日
出身地 日本 山口県下松市
死没 (2021-12-13) 2021年12月13日(92歳没)
ジャンル演歌浪曲
職業浪曲師歌手
活動期間1947年 - 2010年
レーベルキングレコード
事務所浪曲親友協会

初代真山 一郎(1929年6月3日 - 2021年12月13日)、本名:西本恭男(旧姓:野田)。血液型O型家紋・三つ鐶桜。浪曲師だけでなく歌謡浪曲江州音頭と幅広く活躍。
略歴

11人兄弟の長男として生まれた。農家だが父は元々興行関係にも携わっており、その縁で旅回りの浪曲師が実家に出入りするようになった。その影響から幼くして浪曲を志し、5歳の時にはお寺で寿々木米若の「佐渡情話」を語って天才少年と称された。高校を卒業すると同時に、1947年に華井新の門下になり華井満を名乗る。まもなく一座の花形となり1948年に華井新十郎と改名。師匠と二枚看板で全国を巡業する。

入門し数年がたった時に、真山は歌謡曲を吹き込みたくなったが、昔気質の師匠と対立してしまい、師匠に内緒で岸日出夫という名前でマーキュリーレコードから「内緒で御座る」を吹き込むが、すぐに師匠にばれてしまい。破門となる(数年後に破門取り消しとなる)。

歌の勉強のため豊田一夫に師事し、1957年、当時のマーキュリーレコードのプロデューサーが「日本一の山は富士の山、あの山のように一番になれ」という理由を込めて真山一郎と命名。1961年よりキングレコードの専属となる。1961年11月発売の「刃傷松の廊下」が翌年にかけて大ヒット。1971年新作歌謡浪曲「日本の母」が大ヒットし、浪曲の世界に復帰する。

真山の浪曲は元来、浪曲に歌謡曲の入る歌謡浪曲というスタイルであった(#芸風を参照)。1970年より真山の相三味は東家菊栄であったが、高齢の為1983年に引退を余儀なくされる。これに困った真山はしばらくの間は西崎恵美子等の曲師に弾いてもらっていたが、本来の目的でもあった歌謡浪曲の追求、洋楽伴奏だけの歌謡浪曲を創ることに専念し、「演歌浪曲」と称する型を追求した。自ら作曲したカラオケを録音したテープを使い、妻を裏方(オペレータ)として舞台に出した。一節一節効果音が入る為、デッキを付けたり消したりしなければならず、それこそ舞台上では曲師同様の働きをしている。元々、オーケストラ伴奏のみの浪曲1978年発表の「北方の故郷」が第一作であったが、この時は「浪曲ドラマ」という名義であり、この作品を発表した際は、一つの企画に過ぎず、舞台では三味線入りの歌謡浪曲がメインであった。

1984年頃より徐々に演歌浪曲に重点を置いて演じるようになり、翌85年に完全移行してから引退する2010年までの25年間一度も三味線の浪曲を演じることは無かった。弟子も同じ形式の「演歌浪曲」を演じる。

2008年に脳梗塞で倒れた後は舞台には出ずリハビリに励んでいたが、体調不良もあり2010年5月に引退を決意し、弟子の真山広若へ名前を譲ることになり2010年12月4日国立文楽劇場で真山一郎引退公演で惜しまれつつ引退。最後に自身の最大のヒット作である刃傷松の廊下のアテ節(サビ)を語って引退した。

2021年12月13日老衰のため死去[1][2]。92歳没。
年譜

1929年(昭和4年) -
山口県下松市に11人兄弟の長男として生まれる

1934年(昭和9年)頃 - 近所の寺にて佐渡情話を読む

1947年(昭和22年) - 田布施農業高校卒業後、華井新に入門 華井満と命名

1948年(昭和23年) - 華井新十郎に改名。師匠と二枚看板で全国を巡業する。

1957年(昭和32年) - 歌の勉強のため豊田一夫に師事してマーキュリーレコードに入社 岸柳二→岸日出夫→真山一郎と改名

1961年(昭和36年) - キングレコードへ移籍

1962年(昭和37年) - 「刃傷松の廊下・番場の忠太郎」ヒット賞受賞

1963年(昭和38年) - 「殺陣師一代」ヒット賞受賞

1971年(昭和46年) - 歌謡浪曲「日本の母」ヒット賞受賞

1975年(昭和50年) - 東芝レコードより「河内の次郎長」ヒット賞受賞

1976年(昭和51年) - 大阪新歌舞伎座において「芸能生活30周年記念リサイタル」を開催

1978年(昭和53年) - 東芝レコードより演歌浪曲第一作の「北方の故郷」を発表。これを記念して4月3日姫路市民会館、4月4日神戸文化会館、4月10日大阪毎日ホールにて発表会を開催する。

1979年(昭和54年) - 浪曲親友協会副会長に就任。相三味線の東家菊栄引退前後より、三味線入りの歌謡浪曲から、オーケストラ伴奏のみの演歌浪曲に移行し舞台を行うようになる

1985年(昭和60年) - 浪曲親友協会会長に就任、社団法人化に力を入れる。昭和天皇秋の園遊会

1987年(昭和62年) - キャニオンレコードより「北前船」ヒット賞受賞

1990年(平成2年) - 法務大臣賞受賞

1991年(平成3年) - 大阪市民表彰受賞

1993年(平成5年) - 生駒市セイセイビル市民ホールにおいて「芸能生活45周年記念リサイタル」開催

1995年(平成7年) - 大阪府知事表彰受賞

2002年(平成14年) - 文化庁長官表彰受賞

2010年(平成22年) - 体調不良により、国立文楽劇場での引退公演をもって引退

2011年(平成23年) - 株式会社ユーキャンから発売された「歌謡浪曲の世界」鑑賞アルバム・日本人の心のメッセージで久々にインタビューに出演した。

2021年(令和3年) - 死去

2022年(令和4年) - 上方演芸の殿堂入りをする。

ディスコグラフィー歌謡曲

マーキュリーレコード

内緒で御座る - 岸日出夫名義

浅太郎月夜唄 - 岸日出夫名義

白い航路 - 岸日出夫名義

相撲甚句の唄

僕はホームの弁当売り

木魚と珍念さん

大地の流れ星

マドロスさんにも夢がある

月のヨサコイ唄

発破に聞きな

豊年祭りの唄

来年三月高尾が来る

男涙の晴れ舞台

第一次キングレコード

おさらば街道

未練の夢

ふるさと海峡

男一匹旅姿

かんべん波止場

よさこい月夜

刃傷松の廊下

番場の忠太郎

流転笠

相馬子守唄

雪の松坂町

近藤勇

利根川ちどり

無情の盃

王将

無法松の一生

一心太助

伊豆の流し歌

鼻唄五十三次

旅の一座


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