中国地名の変遷
建置北周
使用状況1913年廃止
南北朝恒州
隋恒州
恒山郡
(高陽郡に統合)
恒山郡
唐恒州
常山郡
平山郡
恒州
鎮州
五代鎮州
真定府
鎮州
恒州
鎮州
真定府
鎮州
北宋/遼鎮州
真定府
南宋/金真定府
元真定路
明真定府
清真定府
正定府
中華民国廃止
恒州(こうしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から五代十国時代にかけて、現在の河北省石家荘市一帯に設置された。 578年(宣政元年)、北周により定州から常山郡が分割され、恒州が置かれた[1]。 隋初には、恒州は2郡5県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、恒州の属郡の常山郡と蒲吾郡が廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、恒州は恒山郡と改称され[2]、下部に8県を管轄した[3]。613年(大業9年)、恒山郡は廃止され、高陽郡に統合された。617年(義寧元年)、再び恒山郡が設置された。隋代の行政区分に関しては下表を参照。 隋代の行政区画変遷 618年(武徳元年)、唐により恒山郡は恒州と改められた。恒州は真定・石邑・九門・行唐・滋陽の5県を管轄し、その州治は石邑県に置かれた。742年(天宝元年)、恒州は常山郡と改称された。756年(天宝15年)、常山郡は平山郡と改称された。758年(乾元元年)、平山郡は恒州の称にもどされた。820年(元和15年)、穆宗の諱を避けるために、恒州は鎮州と改称された。鎮州は河北道に属し、真定・石邑・九門・行唐・霊寿・井?・獲鹿・平山・藁城・欒城・鼓城の11県を管轄した[4]。 923年(同光元年)4月、後唐により鎮州に北都が建てられ、鎮州は真定府と改められた[5]。同年11月、真定府は鎮州の称にもどされた。942年(天福7年)、後晋により鎮州は恒州と改称された[6]。947年(天福12年)、後漢により恒州は鎮州の称にもどされた。948年(乾祐元年)、鎮州は真定府と改められた。951年(広順元年)、後周により真定府は鎮州の称にもどされた。 金のとき、真定府は河北西路に属し、真定・藁城・欒城・元氏・獲鹿・平山・行唐・霊寿・阜平の9県と嘉祐・行台・慈谷の3鎮を管轄した[8]。 モンゴル帝国により真定府は真定路と改められた。元のとき、真定路は中書省に属し、録事司と直属の真定・藁城・欒城・元氏・獲鹿・平山・霊寿・阜平・渉の9県と中山府に属する安喜・新楽・無極の3県と趙州に属する平棘・柏郷・隆平・高邑・臨城・賛皇・寧晋の7県と冀州に属する信都・南宮・棗強・武邑・新河の5県と晋州に属する鼓城・安平・饒陽・武強の4県と深州に属する静安・衡水の2県と蠡州、合わせて1府5州30県を管轄した[9]。 1723年(雍正元年)、清により雍正帝の諱を避けるために、真定府は正定府と改称された。正定府は直隷省に属し、正定・藁城・欒城・元氏・井?・獲鹿・平山・行唐・霊寿・阜平・無極・賛皇・新楽・晋州の1州13県を管轄した[11]。 鎮州・真定府・正定府などの中心が置かれたのは正定県(真定県)であったが、やがて鉄道駅のできた石家荘の町が大きくなり、地域の中心の地位を正定から奪った。
魏晋南北朝時代
隋代
区分開皇元年区分大業3年
州恒州定州郡恒山郡
郡常山郡蒲吾郡
九門県 行唐県 滋陽県
石邑県 房山県
県真定県 井?県霊寿県 蒲吾県
行唐県新市県
唐代
五代十国時代
宋代以降に属し、真定・藁城・欒城・元氏・井?・獲鹿・平山・行唐・霊寿の9県と北寨と天威軍を管轄した[7]。
脚注^ 『周書』武帝紀下
^ 『元和郡県志』では大業9年に恒州が廃止となり高陽郡に統合されたとあるが、これは誤りである。
^ 『隋書』地理志中
^ 『旧唐書』地理志二
^ 『資治通鑑』後唐紀一
^ 『旧五代史』晋書高祖紀
^ 『宋史』地理志二
^ 『金史』地理志中
^ 『元史』地理志一
^ 『明史』地理志一
^ 『清史稿』地理志一
表
話
編