真如苑
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真如苑真如苑総本部(真如苑・燈檠山真澄寺)
総本部(東京都立川市柴崎町)
前身真言宗立川不動尊教会
設立1936年2月8日
設立者伊藤真乗
種類包括宗教法人
法人番号5012805000375
本部 日本 東京都立川市柴崎町一丁目2番13号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分46.6秒 東経139度24分17.5秒 / 北緯35.696278度 東経139.404861度 / 35.696278; 139.404861座標: 北緯35度41分46.6秒 東経139度24分17.5秒 / 北緯35.696278度 東経139.404861度 / 35.696278; 139.404861
公用語日本語
会長伊藤真聰(苑主)
関連組織一如社
SeRV
ユニベール財団
清里フォトアートミュージアム
ウェブサイト真如苑
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真如苑(しんにょえん)は、東京都立川市柴崎町真澄寺(旧・真言宗立川不動尊教会[1])に本部を置く、真言宗系醍醐派の伝燈法流を汲む在家仏教教団[2][3][4][5][6]で仏教の宗派の一つである。

戦後、宗教団体法の廃止、宗教法人令公布により、戦時下において国策により統合されていた合同真言宗は解体され分派還元が許されたことを機に、新たに宗団を形成し真言宗から独立した。

1951年に大般涅槃経を所依の経典とし「真如苑」と改称。1953年、宗教法人として認証を受けた[7][8][9]
概要

宗派 真如苑 (包括法人名)

総本山 燈檠山真澄寺
[10](とうけいざん・しんちょうじ)

立教開創  1936年2月8日

1951年、宗教法人法施行後、1953年に文部省により宗教法人として認証。


本尊 久遠常住釈迦牟尼如来(くおんしょうちゅう・しゃかむににょらい、開祖自刻の釈迦涅槃像。)

経典 大乗大般涅槃経(正依経、傍依として般若経法華経等大乗経典、大方広佛荘厳経(華厳経)も重視。なお、般若・法華・涅槃をもって真如三部経と称呼する。)

開祖

伊藤真乗(いとう しんじょう、1906?1989)

伊藤友司(いとう ともじ、1912?1967)

法嗣 伊藤智文(いとうともふみ)

法嗣 伊藤友一(いとうゆういち)


苑主 伊藤真聰(いとう しんそう、1942?)

現代表 伊藤真聰

信者数 

938,190(2022/12/31現在)[11]

916,876(2021/12/31現在)[12]

930,748(2020/12/31現在)[13]

940,099(2019/12/31現在)[14]


所在地 東京都立川市柴崎町1-2-13

略史
草創期

真如苑の開祖、真澄寺開基上人・伊藤真乗(俗名・文明)と妻・伊藤友司[注釈 1]は共に山梨県北巨摩郡出身。真乗は、高等小学校卒業後、農業補習学校に進み卒業。1923年、上京して東京中央電信局(現NTT)購買部で働きながら、正則英語学校普通科(現・正則学園高等学校)を卒業、ついで高等科に進学するも、青年訓練所に入るため[15] 英語学校を辞した。1926年の徴兵令により、東京・立川の近衛師団管下飛行第五連隊に入営し、航空写真の撮影等に携わる[7][9]

除隊後は、石川島飛行機製作所(のちの立川飛行機株式会社)に入社。勤務の傍ら、少年期に父から伝授された一子相伝の伊藤家家学の易学『 甲陽流病筮鈔 』をさらに研鑽した。真乗は雑司ヶ谷の天明教会(真言宗醍醐派修験道部)先達[16] 浦野法海と縁を結ぶ。真乗は、天理教信者であった母の影響、曹洞宗禅寺の檀家総代でもあった父から禅と易学を学び、宗教的資質として父母の衣鉢を継いだのだった。このように上京後は、航空機開発の技術者としての青年期を送り、遠縁の友司と結婚してのち、夫婦で新宿淀橋のキリスト教会にも通い野外伝道にも携わる。

1935年暮、真言密教を学ぶうち、伊藤夫妻は、東京市牛込区の仏師宅で遇った[17]不動明王坐像を自宅に勧請、翌正月早々から寒三十日の修行に取り組んだ。寒修行満願の夜、友司は入神状態となり、霊能を受け継ぎ霊能家になる。これをもって真乗は、会社勤務を辞し、宗教活動に専念することになる。

自宅を成田山新勝寺講中とし「立照講」を届出、「立照閣」として合法活動を講じる。真言宗醍醐派総本山醍醐寺に上り、三宝院道場にて佐伯恵眼座主戒師のもと出家得度の儀に臨み、『得度畢』の辞令を得る[7]

真澄寺」と呼ばれる道場が現在地に完成し、組織も「立照閣」から「真言宗醍醐派立川不動尊教会」へと改められる。

真乗は醍醐寺で、1939年10月27日、三宝院灌頂堂(かんじょうどう)道場にて入壇、三宝院門跡佐伯惠眼大僧正大祇師のもと修験道当山派伝承の恵印灌頂(醐山に伝わる在家法流)を畢え[18]、更に本宗部へと上行をかさね[19]、1943年3月5日、傳戒大阿闍梨 醍醐寺座主 三宝院門跡佐伯恵眼大僧正のもと、醍醐寺三宝院灌頂堂にて[20]、三宝院流憲深方による伝法灌頂を畢め、阿闍梨となった[21]。この間、1941年3月、真言宗醍醐派管長の命に、東京府北多摩郡村山村萩ノ尾、一住坊常宝院の特命住職として晋んだ。出家得度から5年に満たずしての特命住職の命だった。常宝院は、明治初年、新政府による祭政一致 神祇官再興の布告、神仏分離令(1868年)につづく廃仏毀釈の激化、修験道廃止令(1875年)以降、寺運奮わず次第に衰微していた。真乗は村山村武蔵村山市)の修験寺院の特命住職として、廃寺然と化していた堂刹再興に鋭意取り組んだ[22]。同年3月31日付、文部当局の意向に、仏教は十三宗五十六派から 十三宗二十七派 に統合、真言宗各派も合同し「大真言宗」となる[18]。真乗が主管する二院も、合同真言宗第十五教区[23](東京府下 二市三郡)第二組[24] に所属[25]、立川・村山を往復し寺門運営に当たった。1942年4月、戦時下、統制がより厳しくなった宗教団体法による制約に、既存の「成田山立照講」「高尾山清瀧講」を糾合した宗教結社「常宝会」を結成届出[26]、篤信信徒に呼びかけ有縁の各地に支部を結成[26]、常宝院主として復興に努め、特命住職の責を果たした。


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