真正極楽寺
本堂から望む三重塔
所在地京都府京都市左京区浄土寺真如町82
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度1分18.82秒 東経135度47分25.50秒 / 北緯35.0218944度 東経135.7904167度 / 35.0218944; 135.7904167
真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗の寺院。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来。通称は真如堂(しんにょどう)。境内にある新長谷寺は洛陽三十三所観音霊場第5番札所。 永観2年(984年)、比叡山延暦寺の僧である戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱に巻き込まれ、堂塔は焼失した。 本尊は応仁2年(1468年)比叡山黒谷青龍寺に、次いで文明2年(1470年)近江国穴太の宝光寺(穴太真如堂)に避難させた。応仁の乱が終息すると文明10年(1478年)、一条西洞院に寺地を改めるが、文明16年(1484年)には旧地である神楽岡にもどって再建された。 明応2年(1493年)、真如堂の本堂が完成するが、永禄12年(1569年)将軍足利義昭の命によって一条通北に移転する。しかし、天正15年(1587年)、今度は豊臣秀吉によって聚楽第建設のために京極今出川に移転する。慶長9年(1604年)豊臣秀頼の寄進によって本堂が建立される。 寛文元年(1661年)本堂が焼失する。元禄3年(1690年)に本堂が再建されるが、元禄5年(1692年)には再び本堂が焼失する。元禄6年(1693年)、東山天皇の勅によって現在地に移転し、再建される。享保2年(1717年)に本堂が完成する。 本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師円仁が一刀三礼にて彫刻したもので、完成直前に「比叡山の修行者の本尊となりたまえ」と言って白毫を入れようとすると、阿弥陀像は首を三度横に振って拒否されたので、「では京の都に下って、一切衆生をお救い下さい。中でも女人等を救いたまえ」と言うと、阿弥陀像は三度頷かれたという伝説がある。 三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。お十夜(浄土宗の重要な仏教行事)は、ここが発祥である。 近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である。
歴史
境内
本堂(重要文化財) - 享保2年(1717年)再建。
鐘楼堂 - 元禄年間(1688年 - 1704年)再建。宝暦9年(1759年)に作製された梵鐘は、太平洋戦争中の金属類回収令によって供出の憂き目にあい、小さいながらも4か所も穴をあけられてしまったが、幸いにして潰されずに残り、戦後に真如堂に戻されたものである。穴をあけられてしまったのにもかかわらず、鐘の音にはまったく影響はない。
三千佛堂
三井高利の墓