真中満
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真中 満東京ヤクルトスワローズ監督時代
(2015年3月5日、京セラドーム大阪にて)
基本情報
国籍 日本
出身地栃木県大田原市埼玉県幸手市[1]生まれ)
生年月日 (1971-01-06) 1971年1月6日(53歳)
身長
体重170 cm
95 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1992年 ドラフト3位
初出場1993年9月3日
最終出場2008年10月12日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


宇都宮学園高等学校

日本大学

ヤクルトスワローズ
東京ヤクルトスワローズ
(1993 - 2008)

監督・コーチ歴


東京ヤクルトスワローズ (2009 - 2017)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

真中 満(まなか みつる、1971年1月6日 - )は、埼玉県幸手市生まれ[1]栃木県大田原市出身の元プロ野球選手外野手)、コーチ監督野球解説者野球評論家
来歴
プロ入り前

埼玉県幸手市(当時は北葛飾郡幸手町)で生まれ、幼少期に栃木・大田原市に転居[1]。同県大田原市立大田原小学校5年の時に野球を始める。

宇都宮学園高等学校(現・文星芸術大学附属高等学校)時代は、3番を打ち、4番の嶋徹と共に3年時の1988年に春夏連続で甲子園に出場。第60回選抜大会はベスト4、第70回全国選手権は3回戦で敗退。

卒業後、日本大学経済学部産業経営学科(一部)[2]に進学(同期生に渡邉博幸がいる)。1年秋の入れ替え戦ではサヨナラ本塁打を打った。4年春に打率.386、13打点で2冠を獲得し、秋はエース門奈哲寛(現・福岡ソフトバンク打撃投手)との活躍で優勝。東都大学リーグ通算71試合出場、260打数78安打、打率.300、8本塁打、41打点。ベストナイン4回。
現役時代

1992年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから3位指名を受けて入団。

1996年ヘルニア手術のため7試合の出場に終わった。

1997年はケガの飯田哲也に代わり1番打者を務め、リーグ優勝・日本一に貢献する。1997年日本シリーズはセンターのポジションを争っていた飯田が故障で戦列を離れた際の代役扱いで1番センターでスタメン出場した。この年は西武相手に4勝1敗で下し日本一。

1998年は初の規定打席に到達。

1999年にプロ入り初の打率3割を達成。

2001年中日川上憲伸を相手に累計2本しか打てていないホームランの内1本を9月25日ナゴヤドームで勝ち越し3ランを放つなど打率.312でリーグ優勝、日本一に貢献した。

野村克也監督率いるヤクルトの黄金期は、真中はセンターのポジションを名手・飯田と競い、飯田が故障で戦列を離れた際の代役扱いだった。しかし飯田が怪我を繰り返すようになり立場が逆転し、1998年からレギュラー外野手としてライト、センターを守る。2001年の大阪近鉄バファローズと対戦した日本シリーズは、第3戦に香田勲男から打席で一回転するような特異なフォームと体勢で本塁打を放ち「大回転打法」と話題になる。

2005年青木宣親の台頭でレギュラー争いが再び激化する。今度はリーグの最多安打記録を塗り替える青木の大活躍で出場機会が減少するが、真中は勝負強いバッティングを生かすため代打の切り札として新たな役割が与えられた。

2007年は日本記録となるシーズン代打起用回数98回・代打のみで31安打を記録するなど“代打職人”、“代打の神様”と称される。

2008年は14打数1安打(打率.071)に終わり、同年限りで現役を引退する。
現役引退後

2009年からはヤクルトの二軍打撃コーチを務める。

2010年シーズン終盤に猿渡寛茂二軍監督らの契約満了に伴い、二軍監督代行としてフェニックス・リーグを指揮した。11月1日付で2011年度シーズンの二軍監督就任が正式に発表された。

2013年イースタン・リーグで優勝した。

2013年10月23日、2014年シーズンから一軍チーフ打撃コーチに就任することが発表された[3]
監督時代2015年10月27日 日本シリーズ第3戦勝利監督インタビューにて(明治神宮野球場)にて

2014年10月8日、小川淳司の後任としてヤクルトの新監督に就任することが発表された[4]

2015年は巨人などと終盤まで優勝争いを繰り広げた末、10月2日に神宮球場で行われた阪神タイガースとの最終戦で延長11回裏に雄平適時打でサヨナラ勝ちを収め、史上稀にみる大混戦のセ・リーグを制してチームを14年ぶりにリーグ優勝に導き、就任1年目にして優勝監督になった。前年最下位からのリーグ優勝はセ・リーグでは39年ぶりの快挙だった。クライマックスシリーズのファイナルステージでは、ファーストステージ勝者の巨人と対戦。初戦こそ落としたものの、2戦目以降は3連勝、対戦成績4勝1敗(アドバンテージの1勝を含む)で初のクライマックスシリーズ制覇を果たし、14年ぶりの日本シリーズ進出を果たす。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズは1勝4敗で敗退。

2015年10月22日のドラフト会議では、1位指名の山俊(当時明治大学)を巡って阪神と競合し、阪神監督の金本知憲とのくじ引きの結果、真中がガッツポーズし交渉権獲得と思われたが、その後真中の確認ミスが発覚し阪神が交渉権を獲得した[5]。この一件がもとで真中はこの年のゆうもあ大賞を受賞している[6]。出身地の栃木県から同年9月4日付けでとちぎ未来大使の委嘱を受けている[7]

2016年は優勝時のレギュラーであった畠山和洋が故障離脱するなどして5位と大きく成績を落とす。


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