この項目では、行政区画ならびに歴史地理学においての「県」について説明しています。
明治維新以降の日本の「県」については「都道府県」をご覧ください。
これ以外の「県」の用法などについては「県 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
「縣」はこの項目へ転送されています。かつての日向国に存在した城下町・縣(あがた)については「延岡市」をご覧ください。
県(けん)とは、地方のための行政機関の一種。正字(旧字体)は「縣」で、もと釣り下がる意を表した。元は中国の地方行政の名称で官庁を指したが、県の長の管轄する範囲(行政区画)も表すようになった。
現在の日本では地方自治法(昭和22年4月17日法律第67号)施行後、市町村を包括する広域の地方公共団体となり、県の行政事務を扱う役所は県庁といい、法人格を持つ。
漢字文化圏以外の国の行政区画の日本語訳としての利用でも、日本での順序に準じて用いられる(日本語訳としての「県」を参照のこと)。 県の制度が始まったのは春秋時代に遡る。当時の県は辺境の地に設けられていた。秦・晋・魏などの大国は新たに併合した地方の古来の邑の自治権を廃し、替わって県とした。春秋後期になると県制度は内地にまで及ぶこととなり、代わって辺境へは郡が設けられるようになった。郡の面積は県よりも広く、人口は希薄で、地位は県よりも低かった。戦国時代になると、郡が発展していくと同時にその下へ県を設けるようになった。こうして始皇帝による統一で郡県制が確立し、全国36郡の下に県を設けた。隋・唐以後は県は府、州(郡)、あるいは郡、監、庁に隷属が変わっていった。
概要
県の歴史
秦朝時、郡が県を管轄。
漢朝時、郡、国が県を管轄。
漢朝以後、それぞれの時期、それぞれの地方あるいは同一の管轄域で行政区画制度が異なり、郡・府・州あるいは軍・監・庁が管轄。
国民政府時、初めは道の所轄、その後道制を廃止して省(特別行政区)の直轄。その後行政督察区
1949年以後、行政督察区の名称の変更に伴い、専区
一般に領域国家は、領土を地方に分割して経済的・軍事的な効率を得る必要がある。しかし軍事面では、大きすぎる分割は叛乱などの温床ともなり得るので、中央政府の支配力を越えない範囲に限定しようとする。最も簡単な区分は国と県の二階層である。軍事的な要素を重視した場合は、5人または5世帯まで幾層にも細分化される。封建国家では、与えられた領地を分割することで行政区画が深化した。
歴史的には、古代の中央集権国家において、中央政府から派遣される地方官の事務所として、県を設置した。管轄する範囲は互いに排他的であったと考えられる。古代の中央集権国家が破綻すると、地方の小領域が国家として割拠する時代が到来したが、各々の小国家内で県を設置することがあった。近代社会の成立過程で、再び中央集権化されると小国家内の県を対等な基礎的行政区画とし、小国家をそのままか統合分割などで新たに県として設置することがあった[注 1]。
植民地の独立後や冷戦の解消後、中央集権体制だった国家は、規模の原理よりも市場の原理により地方分権の機運が高まった。これらの国家では補完性の原理により県を包括する大領域の行政区画を設置したり[注 2]、県の役割を基礎的行政区画の補完をする広域連合として位置付けることも行われている[注 3]。
日本の県詳細は「都道府県」を参照
日本では中国の制度から汲み取り、明治維新後の近代化政策の一環として、米仏普にも影響を受け、江戸時代までの「藩」を廃止し「県」を置く「廃藩置県」を行い、現代に至る地方自治・地方公共団体の基盤を築いた。
面的な名称には、国・州・藩・郡・町・村・坊・郷・里・荘または庄・区。
線的な名称には、道・街・条・里・線。
点的な名称には、京・都・府・庁・県・市・駅または宿。
人的な名称には、使。
が用いられてきた。江戸時代には能登国を「能州」と書くなど、雅称として漢風の名称が広まっていた (遅くとも『古事記』・『日本書紀』の編纂の頃から「国」と「州」の混用は行われていた)。このため通常は「州>郡>県」の順に小さくなると受け取られていた。
律令制以前には、中央から派遣された豪族が一定の自治権を持つ「国」とともに、同じく派遣豪族領でありながら朝廷の直轄領である「県」(あがた)が地域区分の単位として用いられていた。しかし律令制下で国(令制国)・郡(はじめ評)・里(のち郷)という地方区分が確立すると「県」は地域区分の単位としては用いられなくなり、小県郡(信濃国)、方県郡(美濃国)、大県郡(河内国)のように郡名など地名の一部に名残をとどめるようになった。例外として2007年(平成19年)まで神奈川県に存在した津久井郡は、江戸時代には全国で唯一、地域区分単位として「津久井県」を称していた。