相
夏
第5代帝
王朝夏
都城帝丘(河南省濮陽市西南[1])
→斟?(現在の二里頭遺跡、あるいは河南省芝田鎮
帝丘に都し、その後即位9年目に斟?に遷都し、15年目に帝丘にもう一度遷都したと言われている。
政治を省みなかった暴君であったという。有窮氏の后?が反乱を起こし、后?の家臣である寒?(かんさく)によって殺される。結果、夏の帝室の権力は大いに損なわれた。また、このことで、夏が一旦滅びたという説もある。
『竹書紀年』によると、相元年(戊戌の年)に淮夷を討ち、相2年に風夷・黄夷を討ったという。また、相7年に干夷が訪れ、相8年に寒?が后?を殺し、相28年には寒?と子の澆の手で殺された。
関連項目
放伐
王殺し
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典
^ a b c 譚其驤『?明中国?史地?集』(中國地圖出版社、1991年10月1日)
^ 晁福林『夏商西周的社会??』(北京師範大學出版社、1996年6月)
先代
4代夏帝・中康夏帝室
5代
BC1870頃 - BC1860頃次代
東夷の寒?
表
話
編
歴
夏の帝(第5代)
夏の先祖
黄帝
昌意
??
鯀
夏の帝
禹
啓
太康
中康
相
少康
予
槐
芒
洩
不降
?
?
孔甲
皐
発
桀