相馬御厨
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相馬御厨(そうまみくりや)は現在の茨城県取手市守谷市千葉県柏市流山市我孫子市のあたりにあった中世の寄進型荘園の一つ。「御厨(みくりや)」は皇室や伊勢神宮下鴨神社の領地を意味する。相馬御厨は伊勢神宮の荘園
概説

千葉常重によって成立した相馬御厨は伊勢神宮に寄進されたが、藤原親通源義朝から脅かされる。千葉常胤はこれを回復し、再度伊勢神宮に寄進するが、平家政権になると、佐竹義宗に奪い取られてしまう。これを奪回するために、千葉常胤は源頼朝を利用した。相馬御厨をめぐる攻防が、治承・寿永の乱の原動力の1つとなった。

相馬御厨は在庁官人が在地領主に変貌していく過程で、国司や目代と激しく対立したこと。在地領主層が脆弱な地位を守るために寄進を行ったこと。寄進による保護にも限界があり、鎌倉幕府の成立へとつながって行ったことの例示としてよく取り上げられる。
相馬御厨の成立

天治元年(1124年6月千葉常重(千葉氏の祖)は上総氏の当主である平常晴から相馬郡を譲られて、10月には相馬郡司となった。そして6年後の大治5年(1130年6月11日、常重は自らが地主職を務める「相馬郡布施郷」(大雑把に茨城県北相馬郡)を伊勢神宮に寄進し、その下司職となる。その寄進の内容は、

「地利の上分」(1段()につき151段につき5升、当時としてはかなりの高率)と、「土産のもの」(100羽、塩曳き100尺)を、伊勢神宮に納める

その半分を口入りの神主(領家に相当)・荒木田延明がとり、半分を供祭料の名目で一の禰宜元親(本家に相当)が取る

在地において仲介の役を果たした散位源友定を「預所」とする

常重は下司職となると同時に、「地主」として「田畠の加地子」を取る権利を認められ、常重の下司職と権利は子孫に相伝される

というもの。この御厨は、同年8月下総守藤原親通)の庁宣によって正式に認められた。
下総守藤原親通の横槍

保延2年(1136年7月15日、下総守の藤原親通が千葉常重を逮捕・監禁するという事件が起きる。理由は相馬郡の公田からの官物国庫に納入されなかったというもので、おそらくは過去に遡って数年分であったろうといわれる。藤原親通は千葉常重から相馬郷・立花郷の両郷を官物に代わりに自分に進呈するという内容の新券(証文)を責め取って、私領としてしまう。後述の千葉常胤の寄進状にある「其後国司藤原朝臣親通在任之時、号有公田官物未進、同二年七月十五日、召籠常重身経旬月之後、勘負准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸、以庁目代散位紀朝臣季経、同年十一月十三日、押書相馬立花両郷之新券恣責取署判、妄企牢籠之刻」のくだりがこれに相当する。
源義朝の介入

更に康治2年(1143年)に介入してきたのが源義朝頼朝の父)であった。源義朝はこのころ上総国上総常澄の処に居た。上総常澄は平常晴の息子だが、父親とは折り合いが悪かった。そのため千葉常重が養子になり、相馬郡を譲られた。義朝は上総常澄の「浮言」を利用して、千葉常重から相馬郡(または郷)の圧状を責め取る。 そして、「大庭御厨の濫妨」の翌年の天養2年(1145年3月、義朝は、その相馬郷を避状(さがりじょう)の提出するという形で伊勢内宮外宮に寄進する。

源義朝と藤原親通の利害関係はよく判らないが、藤原親通が摂関家に従属する位置にあったので、大殿藤原忠実の権威を利用して押さえたという説がある[1]
千葉常胤の反撃

常重の子・千葉常胤は必死で立ち向かう。

久安2年(1146年4月に、千葉常胤はまず下総国衙から官物未進とされた分について「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を納めた。結果、「其時国司以常胤可令知行郡務」と相馬郡司職を回復。相馬郷を「且被裁免畢」で取り戻した。しかし立花郷は戻ってこなかった。立花郷は相馬郷や千葉荘から東に遠く離れた太平洋側にある。

相馬郡司の地位と相馬郷を回復した常胤は、8月10日、改めて相馬郡(郷?)を伊勢神宮に寄進した[2]。すでに天養2年(1145年3月、源義朝による寄進があったが、千葉常胤は「親父常重契状」の通り、領主・荒木田神主正富(伊勢内宮神官)に供祭料を納め、加地子・下司職を千葉常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じた。
北相馬と南相馬

源義朝と千葉常胤が寄進した相馬御厨は場所が異なる為、義朝は紛争を「調停」しただけとする説もある。

相馬御厨の境界(四至)は、千葉常重や源義朝(ほぼ同じ)より南(小野上大路まで)だけ大きく広がっていた形跡がある。かつての寄進地は茨城県北相馬郡近辺であったが、千葉県南相馬郡側に広がり、東西7km、南北20km(推定)に及ぶ広大な地域となっていた。保延2年(1136年)以降、常胤一族は必死になってその南部を開発していたのかもしれない。一方、北相馬は上総氏の領分で、上総常澄の子、相馬常清が源義朝から管理を任されていた可能性がある。

しかし千葉常胤は、源義朝を侵略者の一人と感じていたようだ。千葉常胤の寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とある。また源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとしたという説がある[3]


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