相馬大作事件
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中村藩相馬子爵家のお家騒動「相馬事件」とは異なります。

相馬大作事件(そうまだいさくじけん)は、文政4年4月23日1821年5月24日)に、盛岡藩士・下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた弘前藩主・津軽寧親を襲撃しようと企図した事件。

秀之進の用いた別名である「相馬大作」が事件名の由来である。背景には南部藩(盛岡藩)・南部家と津軽藩(弘前藩)・津軽家との家格問題がある。大作は藩主の無念を晴らすため、寧親を隠居に追い込み、官位昇進を阻止しようと考えた[1]。この事件は「相馬大作事件」、「檜山騒動」と名付けられ、中央では講談や狂歌となり世間の注目を浴びた。物語本はあるが、公の記録はほとんどない[2]
経緯
盛岡藩南部家の格式問題

慶長19年(1614年)、南部藩(盛岡藩)初代藩主・南部利直は、徳川家康から虎2匹を拝領した。許可をもらい、死んだ虎の皮を革鞍覆にして家名の誇りとしていた。しかし2代・南部重直の代に幕府の不興を買った上、重直没後には相続問題で8万石に減俸されて虎皮の常用ができなくなった。まもなく領地は10万石に戻ったが虎皮は常用できず、さらに8代・南部利雄の時代には使用禁止となってしまう。そのため虎皮使用は盛岡藩南部家の宿願となった[3]

一方、弘前藩9代藩主・津軽寧親は時の老中と親戚で、功により官位も昇進し従四位下侍従となる。江戸城での席次は盛岡藩主・南部利敬(従四位下侍従)と並ぶこととなった。盛岡藩にとって、弘前藩は元家臣でありながら戦国時代に10万石を横領した謀叛者であり、それに並びあるいはその下位につくことは堪えがたい屈辱だった[4]

弘前藩主・津軽氏と盛岡藩主・南部氏の確執は、戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)の時代に端を発する。もともと大浦氏は、盛岡藩主となった三戸氏(三戸南部氏)と同じく、南部氏の一族だった。大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方と外ヶ浜地方および糠部の一部を支配した。さらに大浦為信は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、当時の三戸南部氏当主・南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となった。このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた[5]。ただ、津軽氏側は南部氏とは異なる出自であることを主張していた。

1714年(正徳4年)には、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる境界線紛議が起きた。これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争った問題である。弘前藩は既成事実を積み重ね、文書類などの証拠を整備して、一件を仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はこれに上手く対応できなかったため、この地域は幕府により弘前藩の帰属と裁定された。この処置は盛岡藩に不満をもたらした[6]。なお、この一件は相馬大作事件の107年も前の出来事である。
幕藩体制と北方警備

1785年(天明5年)田沼意次は仙台藩医工藤平助の『赤蝦夷風説考』でロシア事情を知り、国防と国力増強を図る蝦夷地開拓を目指し、天明の蝦夷地探検隊を三次に分けて派遣した。しかし田沼は失脚し、1787年(天明7年)松平定信が老中首座に任命されると、松平は蝦夷地を未開発の荒れ地のままに放置することでロシアの侵入を防ぐ自然の要害にしようとした。1792年(寛政4年)ラックスマン事件が根室で発生する。1799年(寛政11年)幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げ、東北諸藩に沿岸警備を命じた。1802年(享和2年)幕府は蝦夷地非開発方針を撤回する。1804年(享和4年)レザノフは長崎に国交通商を求めて来航した。幕府は通商を拒否し、蝦夷地の領土化、鎖国の施行を重点化して、北方警備強化のため、南部藩と津軽藩に東蝦夷地の常駐警備を命じた。1806年(文化3年)幕府は「ロシア船撫恤令」を発布し、ロシア船発見したら薪や水は与えて良いが、絶対に上陸させないように諸大名に通告した。1807年(文化4年)3月幕府は蝦夷地全土を直轄地とし、松前藩を奥州梁川に転封した。4月に文化露寇が発生し、択捉島シャナを守備していた幕臣や南部兵、津軽兵は応戦もせずに撤退した。5月18日幕府は東北諸藩に増兵と臨時派兵を命じた。1808年(文化5年)2月、幕府は仙台藩に国後島、択捉島警備を命じた。夏目長右衛門は択捉島の仙台藩士1200人を指揮する軍監役として、蝦夷地防衛総監若年寄堀田正敦から推挙された。夏目は死を覚悟した出征を直前にして相馬大作を平山行蔵に預けた[7]

夏目長右衛門は蝦夷地から帰還すると、相馬大作に文化露寇の一部始終を語り、ロシアの襲撃に対して幕臣も南部兵も津軽兵も誰一人として戦闘に参加しなかったこと、南部藩士は旧式の甲冑に身を固め、旧式の大砲や鉄砲を実戦練習も不十分で、陣幕内からロシア兵の襲撃を眺めるだけであったこと、砲術士は一発も撃たぬまま捕虜になったことを語ったと考えられる[8]
相馬大作について

通称相馬大作、本名は下斗米将真(まさざね)である。下斗米氏は本姓は平氏平将門の子孫である相馬師胤の末裔である。師胤の8世の子孫である光胤の四男胤茂の子の胤成が正平年間、南部氏につかえて南部の家中になった。下斗米というのは、現在の岩手県福岡から7、8km西北にある村であるが、ここに住み知行100両で郷名を取って下斗米氏を名乗るようになった。その後、数代を経て下斗米宗兵衛常高に至る[9]。下斗米宗兵衛常高(寛政6年(1794年)死去)は紙蝋漆を扱う平野屋を興し、一代で豪商となり、さらに安永年間に数度の献金により200石となり、盛岡支配福岡居住となる。下斗米宗兵衛の子が下斗米総兵衛である。下斗米宗兵衛の嫡男は平九郎昌宜である[注釈 1][10]

陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれた秀之進は1806年(文化3年)に江戸に上った。江戸では実家の商売上のつきあいがあった美濃屋に4か月ほど世話になった後、知り合いの紹介で夏目家に入門することにした。相馬大作は夏目長右衛門という旗本に師事して武術を修めたが、1年ほどで夏目が1808年正月に文化露寇への対応で仙台藩兵2千名と共に択捉島に派遣を命じられると、夏目は大作を平山行蔵(夏目は平山の高弟)に預けた。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった[11]

父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設する。相馬大作の姉婿の田中館栄八や下斗米惣蔵、欠端浅右衛門、田中館連司[注釈 2]、一条小太郎など数十人が入門した。同塾では武家町人の子弟の教育にあたった。同年10月、同塾は近郷の金田一に移転する。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、馬場、水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれている。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わる(二戸市歴史民俗資料館に遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されている)。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア帝国)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたという。この思想は、師匠の平山行蔵の影響とされる[12]1817年(文化14年)相馬大作は細井萱次郎[注釈 3]とともに、ロシア船の南下がしきりに伝えられる蝦夷地を視察、北方警備の重要性を痛感する。彼らの視察は宗谷岬や東蝦夷地にも至った[13][注釈 4]

ただ、遠州浜松に予定していた東海第二兵聖閣が台風によって海に流されたことや、有能な財務担当の細井萱次郎が「コロリ」であっけなく死亡したことから、兵聖閣の経営状態は極めて悪化していた[14]


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