相馬 和夫(そうま かずお、1927年1月15日 - 2005年7月23日 )は、日本の実業家。元ヤクルト本社取締役、元ヤクルトスワローズ球団社長。目次 埼玉県熊谷市出身。ヤクルト本社取締役を経て、1970年からヤクルトアトムズ(1974年よりスワローズ)の球団取締役、球団代表などを歴任。 1985年4月に球団社長に就任すると、球団代表の田口周と共に、低迷状態にあったチーム体質の改革に取り組んだ。まず、前年に代理監督を務めていた土橋正幸コーチを正式に監督に任命し、若手の抜擢を依頼して新旧交代を推し進め、「ぬるま湯」と称されたチームの雰囲気を変えていった。1987年には関根潤三監督を招聘し、イケトラコンビ(池山隆寛・広沢克己)をはじめとする若手選手たちを徹底的に鍛え上げさせた。その間にも編成部門の大幅な見直しを進めてドラフト戦略を成功させ、土橋勝征、内藤尚行、飯田哲也、川崎憲次郎などの有望な素材を集めて、1990年代の日本一3度、リーグ優勝4度の礎を築いた。 1990年に桑原潤オーナー代行が招聘した野村克也監督が就任すると、野村の要請に応じて毎年のようにドラフトで西村龍次、岡林洋一、伊藤智仁といった即戦力投手の獲得を次々と成功させた。一方で89年のドラフトでは、野村の反対を押し切って古田敦也捕手獲得の断を下し、1992年にはダグ・デシンセイに依頼してジャック・ハウエルを獲得している。 1993年3月に球団社長を退任。2005年7月23日、肝不全のため栃木県足利市の病院で死去した。享年78。
1 来歴・人物
2 エピソード
3 脚注
4 関連項目
来歴・人物
エピソード
ドラフト会議で、競合した目玉選手の交渉権を見事獲得するそのクジ運から「黄金の左手」と呼ばれた[1]。1982年の1位競合の荒木大輔(早稲田実業学校高等部)、1983年の1位競合の高野光(東海大学)、1983年の2位競合の池山隆寛(尼崎市立尼崎高等学校)、1984年の1位競合の広沢克己(明治大学)、1985年の1位競合の伊東昭光(本田技研)、1987年の1位競合の長嶋一茂(立教大学)、1992年の1位競合の伊藤智仁(三菱自動車京都)の各選手をドラフト上位の競合で交渉権を獲得して、入団にこぎつけた[2]。ドラフトの抽選において、「迷ったら駄目、最初に触ったものを引く」と発言している。しかし、すべてにおいて交渉権を得たわけではなく、1989年の野茂英雄の時のように相馬がクジを引いて外した例もある[3]。
脚注^ 高年俸いつまで…プロ野球、危うい"楽観体質"
^ 1988年の川崎憲次郎(大分県立津久見高等学校)はヤクルトが1位競合で交渉権を獲得しているが、開腹手術をして縁起が悪いとして相馬はクジを引かず、スカウトの片岡宏雄が代わりにクジを引いた。
^ ⇒1989年(平元)史上最多8球団指名、野茂英雄と外れ1位スポーツニッポン
関連項目
埼玉県出身の人物一覧
表
話
ヤクルト本社 / ヤクルト食品工業 / ヤクルトヘルスフーズ / ヤクルト球団
運営施設
現在
スワローズキッズアカデミー / 伊東四朗・吉田照美 親父熱愛
過去
ダイヤル110番 / ハイ!次の方 / ごめんやす御用だ! / 夫婦百景 / チコといっしょに / 木馬座と遊ぼう / どんとこい、天才! / かしましやでェ! / スワローズCafe / ヤクルトヘルシーブレイク
関連人物
代田稔 / 水野成夫 / 南喜一 / 松園直已 / 松園尚巳 / 相馬和夫 / 桑原潤 / 熊谷直樹 / 堀澄也 / 衣笠剛
関連項目
ラクトバチルス・カゼイ・シロタ株 / クロレラ / ヤクルトレディ / ヤクルト本社バレーボール部 / 世界水泳選手権 / 神宮外苑花火大会 / ヤクルトレビンズ / 埼玉ブロンコス / ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッド市原・千葉レディース) / ヤクルト野球アカデミー / ヤクルトバイオサイエンス研究財団 / ヤクルトグループ
表
話
編
歴
ヤクルトスワローズ球団社長 1985.4.10 - 1993.3.23
N/A
松園尚巳(オーナー兼任) 1969 - 1973.2.23
佐藤邦雄 1973.2.23 - 1985.4.10
相馬和夫 1985.4.10 - 1993.3.23
酒井清人 1993.3.23 - 1997.3.25
田口周 1997.3.25 - 2001.3.21