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logo相馬中村城
(福島県)
相馬中村城跡
別名陸奥中村城、中村城、馬陵城
城郭構造平山城
築城主坂上田村麻呂
築城年延暦年間(800年頃)
主な城主相馬隆胤
廃城年1871年(明治4年)
遺構大手門・石垣・土塁・堀
指定文化財なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度47分53秒 東経140度54分52秒 / 北緯37.79806度 東経140.91444度 / 37.79806; 140.91444座標: 北緯37度47分53秒 東経140度54分52秒 / 北緯37.79806度 東経140.91444度 / 37.79806; 140.91444
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相馬中村城大手門(2013年6月3日)相馬中村城内(2013年6月3日)
相馬中村城(そうまなかむらじょう)は、福島県相馬市中村(令制国下:陸奥国宇多郡中村)にあった日本の城。単に中村城とも言うが、他の「中村城」と区別する際には、相馬中村城や陸奥中村城という。
戦国時代から江戸時代にかけての大名・相馬氏の居城の一つであり、江戸時代には藩主相馬氏の中村藩の藩庁であった。馬陵城(ばりょうじょう)という別名を持つ。 縄張りは梯郭式の平山城である。 西の阿武隈山地から伸びる比高15m程の小丘陵に築かれた城である。南面に流れる宇多川を天然の外堀とし、この水を引いて北面・東面に水堀が配される。尾根続きの西面は、堀切と切岸で防御されている。北面に水堀を中心とした地形的障碍を多く用い、仮想敵である伊達氏を意識した構えとなっている。戦時には堀を切って城の北側500m余りを一面の沼沢地にすることができたとも言われる。場所としては宇多川の渡河点を制圧する意味合いを持っている。 中村氏に代わって相馬盛胤が浜通り夜ノ森以北に権勢を振るい、1563年(永禄6年)に次男の相馬隆胤が入城した。この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いから11年後の1611年(慶長16年)、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は中村藩6万石の政府となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手(からめて)門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、1670年(寛文10年)には落雷により天守を焼失したが、時の4代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は為されなかった。以後、これを指針として歴代藩主は天守を再建しなかった。 1868年(明治元年)の戊辰戦争では、中村城は明治政府軍の攻撃を受けて陥落し、陥落後の中村城は明治政府軍の支配拠点となった。
概要
歴史がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。