相良氏法度
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相良氏法度(さがらしはっと)は、肥後国戦国大名である相良氏分国法である。15世紀末から16世紀半ばにかけて成立。後世、相良氏法度との通称で呼ばれるが、「申定条々」と呼ばれた文書、所謂、壁書(かべがき / へきしょ)の集成で、相良氏壁書とも言う。
概要

広義の戦国相良氏は、文安5年の内訌[1]を治めて球磨郡を統一した永留長重に始まるというのが通説[2]であるが、相良氏の分国法はその息子である第12代当主相良為続から、途中の内乱期(大永の内訌[3])の中断を挟んで、第17代当主相良晴広の代までの歴代4当主によってそれぞれ定められ、追加されることで成立した。その内の3人の当主の名前を冠した3つの壁書があり、すなわち為続法(7ヶ条)・長毎法(13ヶ条)・晴広法(21ヶ条)の計41ヶ条からなる。

相良為続が7ヶ条の壁書を定めたのは、明応2年(1493年卯月22日であるとの記載はあるが、この法度は厳密には「為続・長毎両代之御法式」の20ヶ条として天文18年(1549年)5月付の家老税所新兵衛尉継恵の文書に記されていたものを出典としており、すでに理想化された過去の両代が定めた20ヶ条として登場したものを後世の史家が便宜上二つに分けたに過ぎない。相良長毎が13ヶ条を追加した日付の記載がなく、後半を制定した年度はわかっていないが、長毎の短い治世期間内であることは確かであろうから1518年以前に成立した模様。『八代日記』によれば、大永の内訌を統一した相良義滋は、52年ぶりの天文14年(1545年)2月5日に義滋法式5ヶ条を制定し、翌年8月15日に義滋御式目21ヶ条を制定して三郡(球磨・八代・葦北)に公布したというが、これらは相良氏法度には含まれていない。一方で、その十年後の天文24年/弘治元年(1555年)2月7日に(義滋の養子の)相良晴広が21ヶ条を制定したが、この晴広21ヶ条と両代20ヶ条を併せた41ヶ条が、相良氏法度である。

相良氏法度には、下記の様に土地売買の慣行や銭貨の基準(第5条)についての特徴的な記載があり、戦国時代の日本社会の史料としてしばしば珍重される。また随所に武士道的規範が言外に盛り込まれており、単なる掟に留まらず一種の道徳律ともなっていた。また晴広法には一向宗禁制が複数条で明示されている。

人吉藩では、幾つかの条項を除き、江戸時代まで用いられた。
内容

相良家文書にある壁書案(相良法度)の内容は以下の通り。(為続法)
買免(かいめん)
[4]之事 売主買主過候て、以後子々孫々無レ文候者無二相違一本主[5]之子孫二に可レ返。

無文買免之事、一方過候者、本主可二知行一。

買取候田地を又人に売候て、後其主退轉之時者、本々売主可レ付。

譜代之下人之事者無二是非一候、領中之者婦子によらず、来り候ずるを相互可レ被レ返也、寺家社家可レ為二同前一、其領中より地頭に来り候ずるを婦子は其領主のまゝたるべし。

悪銭之時之買地之事、十貫字大鳥[7]四貫文にて可レ被レ請、黒銭[8]十貫文之時者、可レ為二五貫一。[10]

何事にても候へ、法度の事申出候する時はいかにも堅固に相互に被二仰定一肝要候。忽緒(こっしょ)に候する方は承出、無二勿躰(もったい)一之由堅可レ申候。

四至境、其餘之諸沙汰、以前より相定候する事は不レ及レ申候。何事にても候へ、其所衆以二談合一相計可レ然候。誠無分別子細を可レ有二披露一、無理之儀、被二申乱一候する方は可レ為其二成敗一也、為二後日一申候。

(長毎法)

本田之水を以て新田をひらくによって、本田の煩たる在所者、縦本田より餘候水成共、能々本田の領主に乞候而、領掌ならばひらくべし。

人の内之者、其主人之在所を退出之時、又別人より可二扶持一事、本主人へ案内有之、領掌ならば可二許容一。

牛馬ゆるすへき事、田畠の作毛取納以後たるべし。年明[11]者、在々所々其定のことくたるべし。自然牛馬作毛をそんさし候者、其主人へ損之程可レ有レ禮、過分にそんさし候者、其牛馬を可レ留。

盗たる物を志らす候て、買置候より六ヶ敷(むつかし)子細有、所謂売主を見不レ知物ならば、能々決候而、売主不レ知よしあらば、其科たるべし。

識者の事、篇目一定之時者、死罪、流罪、其時之儀に可レ寄。又無二不審一至二申開一者、虚言を申候人、別而の可レ為二重罪一事。

落書落文取あけあつらひの事、俗出上下によらず可レ為レ科、自然あつかふ者あらば、それを主と心得、則可レ為レ科。

寺家社家によらず、入りたる科人[12]の事、則さたをかへ可レ被二追出一、誠於二重罪者一、在所をきらはず成敗あるべし。

小者いさかひ事、勝負いかやうに候共、主人いろふへからす、互各々の小者之折檻すべし。

用によて、文質物之事、必いつよりいつ迄と定あるべし、それ過候而、請取主ままたるべし。

従(より)二他所一其人を尋来候者之事男女童子等いつれも、縦路次なとにて見合候共、其尋行在所可レ付。

諸沙汰の事、老若役人へ申出候以後、於二公界[13]一論定あらば、申いたし候する人、道理なり共、非レ儀に可レ行、況や無理の由二公界一の批判有といへ共 一身を可レ失之由、申乱者有。至レ爰(ここに) 自然有二慮外之儀一者、為道理者不運の死有云共、彼為非レ儀者の所帯を取て、道理の子孫に可レ與、所領なからん者は、妻子等にいたるまで可レ絶。能々可レ有二分別一。
殊更其あへての所へ行、又は中途邊にても、惣而面に時宜をいふべからさる事。

田畠をうり候而、年季あかざる内に、又別人へ売物あり、又子共を質にふたりの所へをき候、為重罪間、此両條は、いづれも主人より可レ被二取置一、至而面々は、上様より直に可レ被二召上一候。

うりかいの和市[14]の事、四入[15]たるべし、年のきとくによて、斗のかず多少あるべき歟、此ますの外用べからず。

(晴広法)

井手[16]溝奔走題目候、田数次第に、幾度も人かす出すべし、人いたさざる方の水口一同とどむべし。

買地の事、かひ主うり主よりも、井手溝之時、十人ならば五人つづ出すべき事。

田銭ふれの時、五日の内に相揃へきこと。付、かひ地はかひ主うり主半分つづいたすべき事。

検断之所へ、作子置候者、主人可レ返、但當作かり取候者、其年者公役すべし。又置主検断之時者、置主の主人へ可レ付事。

検断之所へ、縁者格譲之時、従二他領一、我々兼日格護[17]候が、帰りに来候などと申候、是は無二検断一さきに、連々彼者之事、そなたへ誂置候由、點合(てんあい)[18]なく候者、可レ為二検断の儘一事。


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