凡例相良 晴広
相良晴広像(人吉市相良神社所蔵)
時代戦国時代
生誕永正10年9月15日(1513年10月13日)
死没天文24年8月12日(1555年8月28日)
改名上村頼重→相良長為→為清→義広[1]→晴広
別名幼名および通称:藤五郎、初名:頼重、別名:長為、為清、義広[1]、晴廣
戒名林泉院兆山蓮慶大居士
墓所八代林泉院
官位従五位下・右兵衛佐
幕府室町幕府
氏族上村氏
相良 晴広(さがら はるひろ)は、肥後の戦国大名。相良氏の第17代当主。第16代当主相良義滋の養嗣子で、実父は上村頼興[2]。初名は頼重(よりしげ)。何度かの改名を経て、晴広としたのは将軍・足利義晴からの偏諱による。
生涯
世子時代(麓城)で生まれた。
上村氏は相良氏初代当主相良長頼の四男の頼村を祖とする分家であったが、曽祖父上村直頼の室は第12代当主為続の姉で、さらに祖父上村頼廉は為続の三男が直頼の養子となったもので、母は直頼の弟上村長国の娘であった。実父頼興と、養父義滋(長唯)およびその異母弟(長祗、長隆)とは、従兄弟の関係にあたる。
大永4年(1524年)に相良長定と犬童長広が謀反を起こし第14代当主長祗を放逐して家督を奪い、大永6年(1526年)、瑞堅(長隆)が兵を起してこの長定と長広を追放したが、相良氏の家臣団は還俗した長隆の家督相続を容認せず、第13代当主長毎の庶長子長唯(義滋)を推戴して、さらに内紛が続いた。
前述のように宗家に匹敵する家柄を持つ上村氏は、家中で大きな影響力を持っていたが、当主の頼興は相良宗家の兄弟爭いに対して中立の立場をとって、長唯の先陣の要請を拒否していた。しかし、長唯は戦略上重要な上村城を味方につけるために、(自分に後継者となる男子がいなかったこともあって)頼興の長男頼重を相良宗家の養嗣子として迎えるという条件で、頼興の協力を取り付け、弟長隆を討ち果たした。
享禄3年(1530年)、約束を守った長唯は頼重を養子とし、18歳の頼重は名を「長為[3]」と改めて宗家の世子となった。
天文4年(1536年)4月8日、頼興は、長為の将来を案じて、家中で信頼の厚い実弟の長種を暗殺させた。また同年5月18日、頼興は、名和氏(伯耆氏とも言う)に使者を遣わして名和武顕の娘と長為との政略結婚をまとめた。これは翌年12月22日に入輿の儀となった。なお、これより少し前の同年11月22日、長為は洞然(外祖父上村長国の号)に教えを請い、相良家の事績や家督継承者としての心得等を記した『洞然長状』を送られている。
天文6年(1538年)12月14日、長為は名を「為清」と再び改めた。
天文7年(1538年)4月13日、薩摩守護島津貴久が佐敷に来て、長唯・為清親子の饗応を受けた。貴久は伊作家・相州家から島津勝久の養子となって島津宗家(奥州家)を継いだが、薩州家の島津実久がこれに反対して乱を起こしていた。相良氏の勢力範囲はこの実久の勢力範囲の背後(北)に位置するため、協力を要請したものと思われる。実久は天草郡の天草尚種とも争乱を起しており、義滋が間に入って調停している。
天文11年(1542年)6月15日、為清は正室名和氏(伯耆氏)と離縁した。理由などはわかっていない[4]が、名和氏との盟約(三家同盟)は破れ、天文12年(1543年)1月26日、名和勢が小川に侵攻し、相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。しかし阿蘇惟前は堅志田城を追われて八代に逃れた。相良氏・名和氏・阿蘇氏は、阿蘇氏の同盟相手を阿蘇惟前から阿蘇惟豊に代えて、天文14年に再び和睦した。
天文14年(1545年)11月27日、大内氏の仲介[5]により、大外記の大宮伊治が勅使および室町幕府の将軍の使者として八代に来航。12月2日、勅使は長唯を従五位下・宮内大輔を、為清を従五位下・右兵衛佐にそれぞれ叙した。またこの時、勅使から将軍・足利義晴から一字拝領を許された旨も告げられ、長唯は「義」の字を与えられて義滋と、為清(長為)は「晴」の字を与えられて「晴広」とそれぞれ称することになった[6][1]。この任官の背景として、宮内大輔については相良家に由緒ある官途であり、右兵衛佐については任官の仲介をした大内氏による、大友氏対策としての意図があるとされている[7]。
天文15年(1546年)8月3日、義滋は隠居して家督を晴広に譲った。相良氏が長く内紛に苦しんだ教訓から、義滋は家督相続の事実を内外に広く伝聞して、周知徹底させた。同月25日、義滋は遺書を残して他界した。また同年10月20日に祖父上村長国も死去した。 当主となった晴広は、実父頼興の後ろ楯を得て、戦乱の中でも相良氏を安定に導いていった。島津氏は三州[8]の統一を進めていたが、まだ肥後に進出できるような余裕は無く、薩州島津家とこそ長島の帰属問題で争いがあったものの、島津宗家となった伊作島津家の島津忠良、貴久との関係は、義陽の頃の永禄7年(1564年)に悪化するまでむしろ良好で [9]、少なくとも晴広の晩年までは比較的平穏だった[10]。 天文18年(1549年)8月、老臣らの勧めにより、嫡子の万満丸(義陽)を世子と定めた。これは同い年の庶弟・徳千代(頼貞)との家督争いが起こるのを未然に避ける意味があった。 これより前、菊池義武(大友重治)は兄の大友義鑑に隈府城を追われて肥前の高来に落ち延び、晴広は彼を庇護してしばしば八代で饗応していたが、天文19年(1550年)2月に義鑑が二階崩れの変で死去して大友義鎮が大友氏の家督を継ぐと、3月14日、隈本城主の鹿子木鎮国
晴広の治世
同年6月、名和行興の家臣皆吉武真(伊予守)が叛乱して宇土城を襲撃した。行興は防戦したが、城を棄てて逃亡した。23日、晴広は自ら出陣して高津賀[11]に陣をしいた。武真はこれを恐れて豊福城に撤退した。これにより名和行興は宇土城を奪還できたので、行興は晴広に感謝してさらに豊福城に進撃するように進言した。しかし25日、皆吉武真は兵百余をつれて八代に来て晴広に投降したので、戦うことなく豊福城は再び相良氏のもとに収まった。
一方、大友義鎮は家臣小原鑑元と佐伯惟教に大軍を与えて菊池義武を攻めさせた。7月11日、義武は合志原でこれを迎え撃った敗れた。7月20日、晴広は薩摩の東郷相模守[12]に相良綾部助を使いに出して、大友氏との和議の仲介を依頼した。しかし8月には隈本城で義武は包囲され、戦利なしとして100騎余をつれて城を脱出し、国人衆に守られた金峰山に籠った。ところが金峰山も大友勢に攻め寄せられて、義武は一族と共に天草の河内浦城[13]に逃れ、さらに島原に渡った。