相良城
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静岡県
相良城跡碑(背後は相良中学校)
城郭構造平城
天守構造なし
築城主相良氏
築城年平安時代末(12世紀末)?
主な改修者武田勝頼田沼意次
主な城主相良氏田沼意次
廃城年天明8年(1788年)
遺構無し(埋没)
指定文化財未指定
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度41分12.5秒 東経138度11分53.5秒 / 北緯34.686806度 東経138.198194度 / 34.686806; 138.198194座標: 北緯34度41分12.5秒 東経138度11分53.5秒 / 北緯34.686806度 東経138.198194度 / 34.686806; 138.198194
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相良城(さがらじょう)は、遠江国榛原郡(現在:静岡県牧之原市)にあった日本の城。江戸時代の一時期には相良藩の藩庁が置かれた。
歴史
江戸中期まで

平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて、相良庄の武士・地頭である相良氏肥後人吉城主の祖とされる)の館(相良館)が築かれていた。戦国時代高天神城を攻略して遠江国の支配を図った武田勝頼は、相良に築城をおこなっている(相良古城)。

その後、遠江は天正年間に徳川家康の治めるところとなった。天正14年(1586年)、相良城は相良御殿とされ、徳川家康鷹狩りに用いられた。江戸時代に入ると相良陣屋として相良藩の藩庁が置かれ、本多氏3代、板倉氏1代、本多氏1代の城郭となっている。
田沼意次と近世相良城

近世の相良城は、明和4年(1767年)に田沼意次が築いたものである。

田沼意次は御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に江戸呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の領主となったが、この時の相良には城はなく陣屋のみあった。意次はその後、10代将軍徳川家治の信任を受けて老中として手腕をふるい、所領も加増を重ねた。明和4年(1767年)には家治の命によって神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、築城を許可されて城主格となった。相良城の建設には翌年から取り掛かり11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に天守閣を築くことを許されており、縄張りを北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた[1]

相良城は萩間川、天の川を外堀として本丸、二の丸、三の丸から成り、その規模は東西500メートル、南北450メートルで約7万坪に及ぶ。三重櫓を中心に櫓は6基あり、三重の堀を廻らし、総石垣で、安永9年(1780年)12年の歳月をかけて完成した。田沼はその後もたびたび加増を受け、安永元年(1772年)には5万7千石を領することになる。

天明6年(1786年)、家治が没し、松平定信老中になると意次は失脚、蟄居・減封が命じられた。天明7年(1787年)、退隠した意次から家督を継いだ田沼意明(意次の嫡孫)は、陸奥下村藩1万石に転出。相良城も廃城とされ、天明8年(1788年)に徹底的に破壊された。
田沼氏の復帰と相良陣屋

田沼意明の移封後、相良は天領となった。文政6年(1823年)、陸奥下村藩主・若年寄田沼意正(意次の四男)が、相良に1万石の領主として復帰し、相良城跡に相良陣屋を構えた。明治元年(1868年)に田沼意尊(意正の孫)が上総小久保藩に移されるまで、相良陣屋は相良藩の藩庁として機能した。
遺構本丸跡に建つ牧之原市史料館(旧相良城史料館)

城跡は牧之原市役所相良支所、牧之原市史料館が本丸跡に、牧之原市立相良小学校が二の丸跡、静岡県立相良高等学校が三の丸跡にある。

1782年、御殿と書院を藤枝宿の中心地に位置した円妙山 ⇒大慶寺(現在の藤枝市藤枝4-2-7)[2]庫裡に移築している。
脚注[脚注の使い方] ^ 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社
^ 日蓮宗一致派 身延山久遠寺末、建長5年(1253年)建立; ⇒藤枝宿

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