相羽有
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相羽 有(あいば たもつ、1895年8月8日 - 1979年4月6日)は、日本の民間航空業及び自動車業の草分けとして活躍した実業家。1916年(大正5年)羽田の地に日本飛行学校を設立し、後の東京国際空港(羽田空港)の礎を築いた。通称・羽田の父[1]

日本最初期の自動車学校も開設しており、日本のスチュワーデス(エア・ガール)の生みの親としても知られる。

あいば たもつ
相羽 有
1953年撮影
生誕1895年(明治28年)8月8日
栃木県宇都宮市
死没1979年(昭和54年)4月6日
国籍 日本
出身校宇都宮市立宇都宮商業学校中退
職業日本飛行学校及び日本自動車学校校長
日米スター自動車社長
東京航空輸送社社長
著名な実績日本初の航空機客室乗務員の導入
親戚田中長一郎(義父)
栄誉紅色有功章(1923年)
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生涯
生い立ち

1895年明治28年)8月に栃木県宇都宮町伝馬町(現在の宇都宮市)の呉服商相瀬屋・相羽正吉の四男として生まれる。家は裕福だったが4歳で父を、5歳で母を亡くし、叔父・田中千代吉[2]に養育された[3]

小学生の頃にはライト兄弟初飛行のニュースに大きな衝撃を受ける。その後、宇都宮市立宇都宮商業学校(現在の栃木県立宇都宮商業高等学校)を中途退学し、横浜にあった外国人経営の英語専門学校・フェアモンド・アカデミーに入学。1914年大正3年)に卒業する。

その後、当時開設されて間もない所沢飛行場で、次には千葉県の稲毛海岸で飛行機の操縦法や製作を学び飛行家を目指したものの、強度の近視のために操縦者になることを断念。雑誌「飛行界」や「飛行少年」などで記事を書いていた[4]
飛行学校の設立

1916年(大正5年)、帝国飛行協会主催の発動機製作競技会に友野式九十馬力を作って参加し評価された友野直二という発動機研究家がいた。麻布区本村町で友野鉄工所をやっていた彼を通じ、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}有(たもつ)は三重県四日市出身の玉井清太郎と出会う。飛行機への熱い情熱を持ち続けていた有と自作飛行機で飛行実験などを繰り返していた清太郎はすぐに意気投合し、日本の民間航空界隆興のためにも共に一旗揚げることを決意した。1916年(大正5年)有(たもつ)は両親の遺産一万円を投じ、当時穴守稲荷神社の門前町として栄えていた東京府荏原郡羽田町鈴木新田で、神社のすぐ近くで古くから料亭をやっていた要館の主人・石関倉吉に協力を打診し、元料亭の古い建物を校舎として、隣の建物を機体製作の作業場として借り受けて、弱冠21歳ながら清太郎との共同経営で日本初の飛行学校[注 1]日本飛行学校」を開校。麻布には同時期に「日本飛行機製作所」[注 2]が設立された。清太郎が学校開設の申請を出したのは同年8月、多摩川対岸の三本葭(さんぼんよし)と呼ばれた干潟を飛行練習場とし、そこに集まった人々の頭上を初めて飛んだ10月5日を飛行学校の創立日としている。飛行教官は清太郎が務め、有(たもつ)は主事として学校運営を担当。入学者には後にゴジラを生み出すことになる円谷英二もいた。穴守随一の有力者、石関さんと初会見した私は、「将来の国防は飛行機が第一線に戦う武器となる。この製造と飛行士の育成はもっとも緊急を要する」と臆面もなくまくしたてた。大地主の石関さんは、どこの馬の骨とも知れぬ一青年の、おこがましくも航空に一身を捧げる覚悟を披露したことに感動せられた。老侠客のような石関さんの快諾は千鈞の重みがあった。立派な玄関のついた建物を本館とし、元料亭の離れ家を教室として開校した。これは無償提供されたものだ。かなめ館の女中が上等の料理を運び込んで、主人からの進物ですといわれて、食い気ざかりの一同が欣喜雀躍したこともある。 ? 昭和41年刊『日本民間航空史話』羽田飛行場の生い立ち(相羽有)より

1917年(大正6年)、山形県鶴岡の発明王・斎藤外市から買い受けたフランス製のノーム50馬力エンジンを備えた3人乗りプロペラ機、玉井式三号機が完成。5月20日に公開飛行を実施する。多くの人々が見守る中で芝浦埋立地を飛び立ち、東京市上空にて檄文調の広告ビラ[注 3]を撒いた清太郎だったが、この日3回目の飛行の終盤、着陸寸前に突如左上翼が折れて芝浦海岸に墜落炎上。同乗していた東京日日新聞の湯浅写真部員は即死、清太郎は有(たもつ)の自動車で病院まで運んだものの、手当の甲斐なく24歳の若さでこの世を去った。1916年10月5日。玉井式2号機が初めて羽田の空を飛んだ。

開校一年足らずで片翼を失った日本飛行学校を支えようと東京日日新聞の飛行記者たちが中心となり後援会が発足。清太郎の後任として元陸軍飛行教官・川上中尉の説得にも尽力した結果、日本飛行学校は7月9日に再開された。しかしそこから僅か3ヶ月足らずの同年10月1日には大型台風による高潮[注 4]が発生。死者1,300名超という甚大な被害をもたらし、日本飛行学校でも格納庫ごと玉井式2号機を流されてしまった。
新事業への挑戦

度重なる不運により飛行機事業からの一時撤退を余儀なくされた有(たもつ)だったが、これまで飛行学校の予備教育課程として教えていた自動車操縦法に軸足を移し自動車部を新設。1917年10月にはこれを独立させ日本で2番目[注 5]に開設された自動車学校「日本自動車学校」とした。当時自動車は相当な贅沢品だったが、増えつつある自動車に対し運転手の絶対数が不足していた[注 6]ため、並みの会社員よりよほど稼げる上に丁重な扱いが受けられる人気職種だった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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