相田みつを
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「みつを」はこの項目へ転送されています。児童文学作家については「はまみつを」を、シンガーソングライターについては「落合みつを」をご覧ください。

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本名相田 光男(あいだ みつを)
誕生日1924年5月20日
出生地 日本栃木県足利市
死没年 (1991-12-17) 1991年12月17日(67歳没)
死没地栃木県足利市
国籍 日本
芸術分野書道
教育関東短期大学夜間部国文科卒業
代表作にんげんだもの、おかげさん
受賞毎日書道展入選
後援者須永昇、菅原澄
影響を受けた
芸術家鄭道昭山下陸奥、武井哲応、紀野一義、岩沢渓石
影響を与えた
芸術家尾花也生
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相田 みつを(あいだ みつを、本名:相田 光男、雅号:貪不安(ドンフアン)[1]1924年大正13年)5月20日 - 1991年平成3年)12月17日)は、日本詩人書家。平易な詩を独特の書体で書いた作品で知られる。書の詩人[2]、いのちの詩人[3]とも称される。栃木県足利市出身。
生い立ち

1924年、栃木県足利市に6兄弟の三男として生まれた。生家は名刹、鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた[4]旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しんだが[5][6]、喫煙の濡れ衣をきせられ[7]軍事教練の教官に嫌われたために進学を断念[3]。卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。1942年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ[5]。1943年、書家を志して岩沢渓石に師事、本格的に書の修行を積んだ[5]。1953年3月、関東短期大学夜間部国文科卒業。
創作活動

相田は書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に1954年から7年連続入選するなど、技巧派の書家として出発した[2]。1947年の鄭道昭の臨書・「鄭文公碑臨書」で古典書道における実力を示す一方、1950年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露[5]。専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになり、三十歳のころ、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立した[8]。1954年、最初の個展を足利市で開催。個展はその後も足利市などで毎年開催されるようになった。1955年ろうけつ染めを学び、書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てていたが[2][4]、1974年、教えを受けていた紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、さらに1984年、詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。『にんげんだもの』はその後ミリオンセラーとなり[8]、つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)も約25万部のベストセラー[9]、地位を確立した。若き日には、故郷足利市の老舗菓子店「虎谷」のミートサブレ(命名者も相田で「逢」のMeetが由来で)などの、包装紙や栞のデザインも手がけた[10][11]

1991年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、長男・一人との最期の会話になった[12]。67歳没。

作品に対して妥協を許さず、「逢」というたった一文字を書くために何百枚何千枚と紙を使用したり、印刷のわずかなズレや墨の色の微妙な違いから印刷済みの色紙千枚がボツになったこともあったという[13]。挫折を乗り越えてつくりあげられた作品には自らの実生活が重ね合わされているのが特徴である[3]

「つまづいたって

いいじゃないか

にんげんだもの

  みつを」

?相田みつを(『にんげんだもの』より)

影響と批評

相田は長く不遇であり、師匠の紀野一義によると、詩の文言が顧客に受け入れられずに長く苦しんだという。晩年の大衆的人気と商業的な成功とは裏腹に、文学や書の分野で相田の作品が評論されることはあまりなく[14]、詩人の高橋順子は「相田作品は処世訓のようなもの」、思潮社代表取締役であり詩人でもある小田久郎は「今は分かりやすいものが受ける時代。詩は難解であっていい」、現代詩作家の荒川洋治は「実用的で即効性のあるものが求められているのを感じる。でも、自分がどう生きるのか、長い時間をかけて考えさせてくれるのは文学しかない」と、おおむね否定的である[8]奥本大三郎は「素直に言ってこの相田みつをと言う人の、わざと下手に書いて人に阿(おもね)るような字も、それを紙に書きつけた、人の心の底の劣等感をごまかすような文句も私は嫌いである。上手に書ける字をわざと下手に書く人には何か魂胆がある、と警戒したくなる」などと厳しい[15]

一方、詩人の杉山平一は「相田みつをを詩人として認めるべき」であり「大勢の人に相田作品が読まれている現実を、無視するわけにはいかないでしょう。むしろ詩人は、独りよがりになりすぎた現代詩の反省材料として、相田ブームを見るべきではないか」と述べた[8]。作家の立松和平は相田を「思想の語り部」と評し、「難しい言葉を一つも語らないで、仏教の根本的な哲理のようなものを語ってしまう。そして、それを読んだ人に『なにかが残る』んですね。残る――ということは、その先の世界があるということです」と語った[5]。行動経済学研究の第一人者であるリチャード・セイラー(en:Richard Thaler)は「彼の残した書の言葉は実に素晴らしく、心を打たれました。印象に残ったのは、“しあわせはいつもじぶんのこころがきめる”というフレーズと、“にんげんだもの”です。行動経済学に通じるものがあります」と語り、相田の人に対する洞察が行動経済学が想定する「人類」をうまく表現していることを指摘した[16]
著名人の座右の銘

「そんかとくか 人間のものさし うそかまことか 佛さまのものさし」 
南部靖之(パソナ代表取締役グループ代表)[17]

「そのとき どう動く」 菅原澄(画商・タマ美術代表取締役)[13]

「たまには涙をみせたっていいがな」 藤波辰爾(新日本プロレス社長)[18]

「一生燃焼、一生感動、一生不悟」 常盤百樹(ときわももき、四国電力社長)[19]

「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」 野田佳彦(元内閣総理大臣立憲民主党最高顧問。)

「出会いが人を変え、感動が人を動かす」NAOTOEXILEのパフォーマー)[20]


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