日本の政治家相澤 英之あいざわ ひでゆき
生年月日 (1919-07-04) 1919年7月4日
出生地 日本 大分県宇佐市
没年月日 (2019-04-04) 2019年4月4日(99歳没)
死没地 日本 東京都
出身校東京帝国大学法学部
(現・東京大学法学部)
前職大蔵官僚・主計局長・事務次官
東京福祉大学学長
衆議院議員
所属政党自由民主党(麻生派)
称号正三位(正八位から昇叙)
勲一等旭日大綬章
レジオン・ドヌール勲章
陸軍主計少尉
法学士(東京帝国大学)
配偶者先妻・相澤周子
後妻・相澤葉子
公式サイト ⇒相沢英之公式サイト
第6代 金融再生委員会委員長
内閣第2次森内閣
在任期間2000年7月30日 - 2000年12月5日
第43代 経済企画庁長官
内閣第2次海部内閣
在任期間1990年2月28日 - 1990年12月29日
衆議院議員
選挙区(鳥取県全県区→)
鳥取2区
当選回数9回
在任期間1976年12月10日 - 2003年10月10日
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相澤 英之(あいざわ ひでゆき、1919年〈大正8年〉7月4日 - 2019年〈平成31年〉4月4日)は、日本の大蔵官僚、政治家、弁護士(相沢法律事務所、登録番号:32425)。
経済企画庁長官官房長、大蔵省理財局長、主計局長、大蔵事務次官、衆議院議員(9期)、経済企画庁長官、自由民主党金融問題調査会長、金融再生委員会委員長、東京福祉大学学長などを歴任した。妻は女優の司葉子[1]。金融行政における大きな影響力と発言力を持っており[2]、金融族のドンといわれていた[3]。 現在の大分県宇佐市に父・相澤次郎、母・クメの3番目の子供として生まれた。父は宇佐中学校の教員をしていた[4]。相澤家は鎌倉時代からつづく横浜の旧家である。 父の転任に従って新潟県高田、群馬県桐生、愛媛県大洲と転々とし、小学校に入る頃、一家は郷里の横浜に戻り、父が校長をしていた根岸小学校に入学する[5] 神奈川県立横浜第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1942年9月25日大蔵省に入省。入省成績は同期で最下位だといわれていた[6]。自身の述懐によれば、高等文官試験(行政科)の成績も大学の成績も悪かったが、同時に受けた司法科の成績が良かったため「合わせて一本」で採用されたという[7]。入省してからまもなく10月1日には召集され、陸軍東部第十七部隊(近衛軽?重兵連隊)に初年兵として入営した[8]。 1943年11月陸軍経理学校卒業。陸軍主計少尉。京城(現ソウル)で終戦を迎える[9]。 ソ連タタール自治共和国エラブガで3年の抑留をさせられる。1948年8月に復員[9]。 大蔵省に復職して国有財産局賠償業務課、下京税務署長などで勤務した後、1949年9月に主計局主査(逓信担当)。以後1973年に事務次官となるまで、近畿財務局長、経企庁官房長、理財局長を計3年間務めた他は全て主計局勤務であり、主計局歴が最長とされる[10]。もっとも、相沢自身は何度も他局、特に金融当局への人事希望を出してきたが叶わず、米国留学も上司の要請で取りやめになるなどしており、主計局一筋になったのは多分に偶然の要素が大きかったとしている[11]。 1963年の人事の際には岩尾一 2人の息子を残して妻に先立たれたが、経済企画庁官房長だった1969年、女優の司葉子と結婚した[1]。1974年6月に退官。 赤沢正道に乞われ、1976年の第34回衆議院議員総選挙に、妻である司葉子の出身地である旧鳥取全県区から自民党公認で立候補。司葉子も婦人講演会や個人演説会まわりに参加する万全の体制で[13]初当選[14][1]。奥出雲の山林大地主23代目田部長右衛門の全面的な支援があったとされる。以後9回連続当選。 官僚時代の田中角栄との関係から、当選後は木曜クラブに所属すると思われていたが、田中金脈問題やロッキード事件が世間を賑わせたことで派閥入りを見合わせ、無派閥を選択する。
来歴
生い立ち
大蔵官僚として
政治家として