相模線
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この項目では、JR東日本の相模線について説明しています。相模鉄道の鉄道路線については「相模鉄道#路線」をご覧ください。

相模線
相模線を走るE131系500番台
海老名駅 - 入谷駅間)
基本情報
日本
所在地神奈川県
種類普通鉄道在来線幹線
起点茅ケ崎駅
終点橋本駅
駅数18駅
電報略号サミセ[1]
開業1921年9月28日 (102年前) (1921-09-28)
一部廃止1984年3月31日(寒川 - 西寒川間)
所有者東日本旅客鉄道(JR東日本)
運営者東日本旅客鉄道(全線)
日本貨物鉄道(茅ケ崎 - 厚木間)
車両基地国府津車両センター
湘南・相模統括センター
使用車両使用車両を参照
路線諸元
路線距離33.3 km
軌間1,067 mm
線路数単線
電化方式直流1,500 V
架空電車線方式
閉塞方式自動閉塞式(特殊)
保安装置ATS-P[2]
最高速度85 km/h

路線図

上の路線図の赤線が相模線、青線がかつての横浜線乗り入れ区間

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相模線(さがみせん)は、神奈川県茅ヶ崎市茅ケ崎駅と同県相模原市緑区橋本駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線幹線)である。
概要

東海道本線の茅ケ崎駅から相模川に沿って北へ向かう路線である。南側は相模川の東岸沿いを通り、北側は相模原台地の西側を築堤や切通しの連続で登り詰める。元は相模鉄道(法人としては現在の相鉄ホールディングス)の路線であったが、東海道本線と中央本線とを結ぶバイパス路線として後に国有化された。過去には支線として、1931年に廃止された寒川駅から川寒川駅への支線(通称:川寒川支線)と、1984年に廃止された寒川駅から西寒川方面への支線(通称:西寒川支線、寒川支線。「西寒川駅」の記事も参照)があった。

路線名の「相模」は相模鉄道に由来するもので、旧国名に直接由来するものではない。相模鉄道が神中鉄道を吸収合併した際に、相模鉄道の路線(相模鉄道相模線、現在のJR相模線)と旧 神中鉄道の路線(相模鉄道神中線、現在の相鉄本線相鉄厚木線)を区別するためにつけられた「相模線」の名称を踏襲している。

「がみ線」という通称がある[3]

全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」、およびIC乗車カードSuica」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内や車体に使用されるラインカラーは相模川をイメージした濃い水色(■)である。

終点である橋本駅中央新幹線の停車駅(神奈川県駅)となる予定であることや、寒川町倉見地区への東海道新幹線相模新駅の誘致が絡み、抜本的な輸送力増強策として地元自治体から列車行き違い施設設置や複線化などの要望があるが、莫大な費用がかかることが予想されるため、JR東日本からの具体的な動きはない[4][5]
路線データ

管轄・路線距離(
営業キロ

東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者

茅ケ崎駅 - 橋本駅間:33.3km


日本貨物鉄道第二種鉄道事業者

茅ケ崎駅 - 厚木駅間:14.2km



軌間:1,067mm

駅数:18(起終点駅含む)

相模線所属駅に限定する場合、起終点駅(茅ケ崎駅は東海道本線、橋本駅は横浜線の所属[6])が除外され、16駅となる。


複線区間:なし(全線単線

電化区間:全線(直流1,500V)

閉塞方式:自動閉塞式(特殊)

保安装置:ATS-P[2]

最高速度:85km/h

運転指令所:橋本CTCセンター

運転取扱駅(駅が信号を制御):茅ケ崎駅

準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):厚木駅・橋本駅


最小曲線半径:107m(茅ケ崎駅 - 北茅ケ崎駅間の1か所)

全線が横浜支社の管轄である。
歴史

相模線は、神奈川県中央部を縦貫して東海道線中央線を連絡することと、相模川で採取した砂利の輸送を目的として建設された路線である[7]相模鉄道(法人格としては現在の相鉄ホールディングス)によって建設され、1921年(大正10年)9月に最初の区間として茅ケ崎駅 - 寒川駅と砂利運搬用の支線 寒川駅 - 川寒川駅間が開業。1922年(大正11年)5月には砂利運搬用の支線 寒川駅 - 四之宮駅間、1926年(大正15年)7月には寒川駅 - 倉見駅 - 厚木駅間、1931年(昭和6年)4月29日橋本駅までの全区間が開業した。しかし太平洋戦争中の1944年(昭和19年)6月に、茅ケ崎駅 - 橋本駅間と、相模海軍工廠とつながっている支線の寒川駅 - 四之宮駅間が戦時買収私鉄として国有化された。相模線を国有化した理由は、戦時体制のもと、都心が攻撃された場合に備え八高横浜・相模線の迂回ルートを確保するためであった[8][9]。戦後には元の運営者である相模鉄道への払い下げや、国鉄分割民営化の前には相模鉄道への譲受を検討したこともあったが、国鉄分割民営化時には営業係数が400に近かったため条件が折り合わず破談となった[10](詳細は「相模鉄道#いずみ野線の建設と大手私鉄認定」を参照)。

相模線は、高度経済成長後の1980年代になって沿線がベッドタウン化し、現在のような運行形態が取られるようになったが、それまでは沿線人口は少なく、1960年代の沿線都市人口は相模原市の約20万人が最大で、沿線第3の都市であった厚木市でさえ8.9万人に過ぎなかった[注釈 1]。さらに相模川の砂利採掘が禁止された1960年頃には貨物輸送も激減し、1971年度の収支係数は374と、関東地方国鉄線の中では鹿島線の634、木原線の459に次ぐ第3位の赤字路線であり、これは現在第三セクター化されている足尾線の361や真岡線の345よりも悪く、1968年(昭和43年)に「赤字83線」に選定され廃止対象とされた烏山線の265を遥かに下回っていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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