相模総合補給廠
[Wikipedia|▼Menu]

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度34分51秒 東経139度22分40秒 / 北緯35.580717度 東経139.377762度 / 35.580717; 139.377762相模総合補給廠のメインゲート(西門)

相模総合補給廠(さがみそうごうほきゅうしょう)は、神奈川県相模原市中央区に所在する在日アメリカ陸軍の補給施設である。米側名称は U.S. Army Sagami General Depot(通称:相模デポ)、旧名称は横浜技術廠 (YED: Yokohama Engineering Depot) 相模工廠。1945年に敗戦前相模陸軍造兵廠の敷地および施設を接収して設置された。

施設の敷地は、JR横浜線相模原駅 - 矢部駅付近の北側約214ヘクタールを占めている。そのうち、西側の一部敷地(約17ヘクタール)は2014年9月30日日本へ返還された。
概要相模総合補給廠内の標識相模総合補給廠内に並ぶ軍用車両解体される前の「座間NDB

アメリカ陸軍、アメリカ空軍アメリカ海軍アメリカ海兵隊小銃、糧食、野戦病院セット、各種工作車両等の各種物資が常時保管されており、アメリカの世界戦略を支えている重要な施設である。かつては、敷地の北西部に戦車装甲車などの兵器を補修する整備施設、整備した車両のテストコースがあり、ベトナム戦争において重要な役割を果たした[1]

また、アメリカ本土の陸軍部隊と陸上自衛隊の共同演習の際に使用する戦車・装甲車などの兵器一式が、以前は「保管」されていた。

運用に当たっては、在日アメリカ陸軍司令部があるキャンプ座間、アメリカ陸軍の揚陸施設である横浜ノース・ドック、極東の輸送ハブである横田飛行場と密接に連携している。

一方で、廃棄物の一時保管場所になっているため、しばしば地元との対立が発生している。1992年には、カドミウム境川に垂れ流していたことが判明、1999年には、有毒物質であるポリ塩化ビフェニル(PCB、米軍基地で使用されていた米国製・日本製等)を保管していたことが明らかになり、問題となった。PCBは一度横浜ノース・ドックからアメリカ合衆国に搬出されたが、アメリカの港で受け入れを拒否されて横浜ノース・ドックに戻され、結局ウェーク島に一時保管されることとなった。

西門が事実上の正門として使用されており、出入りする車両に対しては日本の警察官による厳重な検問が行われている。一般開放は2008年で一旦終了したが、2013年からはハワイアンフェスティバルの会場として開放している。また、敷地内にて毎年4月中旬にマラソン大会(東日本国際親善マラソン)が開催されており、参加者は入ることが可能である。また、敷地内には鹿島神社 (SHRINE PARK) があるが、この神社を訪れることができるのは関係者のみとなっている。

2008年には西側の一部敷地(約17ヘクタール)[2]について日本への返還が正式決定、2014年9月30日に返還された[3]。長く取り残されてきた相模原駅北口エリアの再開発が期待されている(詳細は後節)。
施設データ


所在地:神奈川県相模原市中央区矢部新田上矢部小山

面積:2,143,508m2(※西側の一部敷地など返還以前のデータ)

管理部隊:在日アメリカ陸軍基地管理本部(旧第17地域支援群 (17th Area Support Group))

所属部隊

第35補給・業務大隊司令部 - 全世界に4つある陸軍事前集積貯蔵 (APS) のうち「APS?太平洋」を運用する部隊

国防再利用販売事務所 (DRMO)

米軍極東科学センター

国防物品販売局配送センター (DECA)


用途:工場用地

座間NDB(2008年9月25日 廃局)

羽田を離陸し、北陸・中国・北九州方面へ向かう便が用いる航空機のルートのひとつ、ザマ6ディパーチャーなどで利用されていた航空保安無線施設(無線標識)

本基地は座間市ではなく、相模原市に所在するが、座間NDBと命名されていた。なお、相模原市と座間市にまたがって所在する、キャンプ座間基地内にはキャスナーNDBが存在する。


アメリカ軍人・軍属:約150名(訓練センター完成後は約300名)

従業員数:約600名

歴史

1972年 - ベトナム戦争が激化する中、軍用車両の搬出阻止運動が活発化し、連日抗議運動の多数の参加者がゲート付近に詰めかける状態となった。

9月4日 - 阻止運動のために補給廠前に集結した中核派800人と革マル派700人が内ゲバ状態になり、制止に入った機動隊員を含めて約120人が負傷[4]

9月8日 - 野外集積場から出火。相模原消防本部から化学消防車など8台も出動して30分ほどで消火されたが、20リットル入り塗料の缶など約200本、200リットル入りドラム缶約100本の半分が焼失した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef